ちひろのことばについて

ちひろが語った言葉の一部を6つのテーマから紹介します。

絵本

1971年(51歳)アトリエのちひろ

わたしも長い生命をもった、童画家でありたいと思う。

さざなみのような画風の流行に左右されず、何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う。もっとも個性的であることが、もっとも本当のものであるといわれるように、わたしは、すべて自分で考えたような絵本をつくりたいと思う。そして、この童画の世界からは、さし絵ということばをなくしてしまいたい。
童画は、けしてただの文の説明であってはならないと思う。その絵は、文で表現されたのと、まったくちがった面からの、独立したひとつのたいせつな芸術だと思うからです。

「なかよしだより」(講談社)455号(1964年10月)より

その人の成長につれてふくよかにより美しく成長し、心の糧になっている。

童画を描いている私は、それがちょっとおそろしい気もするけれど、しあわせなことだとしみじみ思う。

「こどものせかい」付録(至光社) 1968年より

どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。

それに気がついていない若者は多いのでしょうけれど、私はそのことに早く気づいて、豊かさについて深く考えてほしいと思います。私は私の絵本のなかで、いまの日本から失われたいろいろなやさしさや、美しさを描こうと思っています。それをこどもたちに送るのが私の生きがいです。

「人生手帳」(文理書院)1972年12月号より

本を抱える少女 1970年

家族

二つの足音 1958年

一日のうちのたいてい二回、私のこころにちょっとした温いしあわせな気持がよぎる。

コツコツと、小さな足音と、大きな足音が、それぞれ私の仕事場の前をとおって玄関にむかうときだ。机にむかっている私は、いそいそと立ちあがり玄関のドアーをあける。第一回目はおひる少し過ぎ、小さい足音の小学一年生、一人息子のおかえりだ。そのひとえのつぶらな瞳が、やっとわが家に安着だ。

第二回目の大きな足音は主人だが、それは時間がきまっていない。夕食をすませ、子供を寝かせ、まずは机にむかって待っている。仕事をしているような、していないような、不安定な不思議な気持。そして一日のおわりに近く、そのなつかしい大きなコツコツが、私の耳にきこえてくる。

「婦人民主新聞」1958年9月28日より

ローラースケートをする少年 1970年

「あなたのお子さん、もう学校でしょ」
「どうしてわかる?」
「新聞の広告にでている絵で」

わたしは無意識だったけれど、制約のないイラストをたのまれると、その中にいつも自分の子どもを描いていました。はじめは小さな赤ちゃんを、そして幼児、いつのまにかランドセルを背負った子を描いたんだと思います。私の子どものことを知らない友だちでも、ああ幼稚園にいきだしたな、ハモニカが吹けるようになったな、自転車にのってるな、とみんなわかってしまったそうです。でもひとつ、きっと男の子なんだか女の子なんだかわからなかったと思います。私は自分の子の形はかりましたけれど、かってに女の子に姿を変えたりして描きましたから。「あなたはきっとかわいい女のお子さんをおもちなのでしょう」という手紙までもらいました。
その息子も十七歳になりました。もう、童画の材料にはならないけれど、私はふしぎなことに、若い人のためのおとなの絵本を描きはじめています。

「わたしのえほん」(みどり書房)1969年より

1972年春(53歳)増築した母文江の居室の縁側にて

私なんか、独身だったら気楽で、絵もバンバン描けるだろうと考えられるけど、とんでもないですよ。

夫がいて子どもがいて、私と主人の両方の母がいて、ごちゃごちゃのなかで私が胃の具合が悪くなって仕事をしていても、人間の感覚のバランスがとれているんです。そのなかで絵が生まれる。大事な人間関係を切っていくなかでは、特に子どもの絵は描けないんじゃないかと思います。

子ども

スイートピーとフリージアと少女 1963年

ドロンコになって遊んでる子供の姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかも知れない。その点、私の描く子どもは、いつも、夢のようなあまさが、ただようのです。

実際、私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。

「子どものしあわせ」(草土文化)1963年3、4月合併号より

おすわりしたあかちゃん 1971年

私もさわりたくてしょうがないんです。その辺に赤ちゃんなんかいると自分のひざの上に置いておきたい。

親はどうしてもさわらずにはいられないものじゃないかしら。私はさわって育てた。小さい子どもがきゅっとさわるでしょ。あの握力の強さはとてもうれしいですね。あんなぽちゃぽちゃの手からあの強さが出てくるんですから。そういう動きは、ただ観察してスケッチだけしていても描けない。ターッと走ってきてパタッと飛びついてくるでしょ。あの感じなんてすてきです。

「教育評論」(日本教職員組合)1972年11月号より

雪のなかで 1972年

雪のなかで

雪のなかに はじめて おりたった日
こどもは そのひとみを 一ぱい見ひらいて
好奇心と感動で まばたきもできない。

ずーっと前
庭のつつじが花をせいいっぱいつけたとき、
小さな手をさしのべて、その花をたたかずには
いられなかったふしぎな感動、
そしてまた
いなかの川べでおたまじゃくしのむれを
見つけた時の胸うつよろこび。

こどもは、はじめて知るこの世のふしぎに
いつも そのまあるいひとみを輝かす
いま
雪はひひとして彼女の頬やまつげを打つけれど
この白い世界に、この子はもう一生忘れることのできない
美しい夢をもちつづけることだろう

「新潟日報」1973年1月9日より

おしゃれ

後ろ向きの白いワンピースの少女 1970年

ローランサン(※)と思い出の白いドレス

少女雑誌の口絵かなんかで、はじめてローランサンの絵を見たときには、本当におどろいた。どうしてこの人は私の好きな色ばかりでこんなにやさしい絵を描くのだろうかと。

それから私が一ばん好きだった洋服を思い出す。白いボイルの地に白いレースがついていた。ベルトは繻子織りのももいろのリボンで、うしろでむすぶようになっていた。母のお友達がはるばるフランスから送ってくださったのだ。町営住宅の小さな家に、この洋服は白鳥のように優雅におりたって私をどんなにしあわせにしてくれたことか。ローランサンの描く少女の風情とこの洋服は私の思い出のなかでダブっている。こがらな私が小学二年までしかきられなかった、ちいさな洋服だった。

「随筆サンケイ」(サンケイ新聞社出版局)1970年6月号 より

※マリー・ローランサン(1883-1956):20世紀のパリで活躍したフランスの女性画家

マーガレットの咲く庭で夫と 1968年5月(49歳)

朝顔が五つ咲き、小雨がぱらついて朝をむかえました。

きょうは絵本ができてくる日、ちょうど「あかちゃんがくるひ」の小さなおねえちゃんのように、私はそわそわした気持ちです。あの子のようにダンボールの箱のなかにはいったりしないで、だまって机にむかっているのです。
来年も武市さんと絵本の仕事ができるかしら。来年のことをいうと鬼が笑うって、じゃまをするかもしれないけれど、どうかそのようなことがないように。

小雨がやんで、落日がもれ、せみが鳴きはじめました。そばに寝そべっているうちの老犬もむしあつかろうと、クーラーをつければ少し寒すぎるつごうのよくない日になりました。そのなかで考えています。

「絵本づくりの仕事場より」(至光社)1969年9月より

むさし野の林の中に土地を買った。いずれ家を建てて住まうつもりである。
けれど、新しい家のことを考える度に、いま住んでいるこの家とその周辺に、私は相当な愛着を感じていることに気がつく。

いろいろな部屋に兼用しているこの仕事場(アトリエとは言い難い)にすわっていて、私はまずこの庭の樹々が好きなのである。十年の歳月は、ひろくもない庭の樹木をみんな大きくし、家のまわりから緑がむんむんおしよせる。部屋の二間程前にそそりたっていたとなりのコンクリートの塀には蔦がみごとにのび、庭木の根本には苔がむしてきた。ここで私は結婚十周年を過ぎ、一人息子は九歳になった。そして息子の愛する友達たちも、この家のまわりで共に丈夫で、元気に大きくなっている。家の周りを走り回るなじみの子どもたちの歓声に、思わず目を細めたりして、私はここで、忙しく仕事をつづけてきた。

あとどのくらいここに住むのか、家を建てるお金が出来るまでのことだろうが、蔦とつるばらと子どもたち、十年の歳月がつくりあげたこの家の生活は、私には本当にすてがたい。

「ひとつのねがい」(羽後銀行)14号1960年より

春の庭 1969年

春になって庭に花が咲きだすと、私の心はどうしてこう散漫になるのであろうか。素どおしのガラス戸から、やわらかい緑や花の色が見えると、もう私は仕事どころではなくなり、すぐ庭にでてしまう。

一日に何回となく陽光の戸外にでていると家のなかの暗い机にはどうしても向かう気にならなくなる。
春の花にはしきりに蝶がきたり、蜂がきたりする。花のほのかな香りのなかにいると、にぶい羽音がきこえてくる。仕事のことさえ気にしなければ申し分のない春なのに、申し分がなければないほど、私はこの春に悲しみを感じないわけにはいかない。春愁などという俳人の詩的な愁いではない。この世の若もののなまなましい挫折感が身にしみる春だからである。

若い苦しみに満ちた人たちよ。その若い魂と体でどうかがんばっていただきたい。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは、同じような苦しみに堪えている人々に、どんなにか胸にせまる愛情がもてることだろう。本当に強いやさしい心の人間になれる条件は、その人が経験した苦しみが多いほどふえていく。そして又、人の心をうつ、美しくてやさしい心の作品をつくる芸術家にもなっていける。

「続・わたしのえほん」草稿 1971年より

木の葉のなかの少女 1966年

十一月になるとある日突然、目がさめるように庭が明かるくなる。銀杏の葉が真黄いろになって一せいに庭に散り敷くからである。それは雪の日の朝の感動に似た、秋の日の一ときの思いがけないよろこびである。

けれどこの黄色い華麗な喜びを去年も今年も、多分一昨年もあじわっていない、銀杏の葉が色づきはじめたかなと思ううちに、まだ緑色がのこっているというのに、茶色に枯れてお隣からふってくる欅の落ち葉にまじっていつとはなしに散ってしまうのである。裏にできた新青梅街道に車がたくさん走るようになったせいだろうか。

「平和新聞」1971年11月25日より

大人になること

枯れ草と少女 1970年

人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。

といってもなにも私が特別不幸な娘時代を送っていたというわけではありません。戦争時代のことは別として、私は一見、しあわせそうな普通の暮しをしていました。好きな絵を習ったり、音楽をたのしんだり、スポーツをやったりしてよく遊んでいました。

けれど生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、なにごとにも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。

ですからいくら私の好きなももいろの洋服が似あったとしても、リボンのきれいなボンネットの帽子をかわいくかぶれたとしても、そんなころに私はもどりたくはないのです。

ましてあのころの、あんな下手な絵しか描けない自分にもどってしまったとしたら、これはまさに自殺ものです。

もちろんいまの私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで、私は二十年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。

少年老いやすく学成りがたしとか。老いても学は成らないのかもしれません。

でも自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけれどこの世の中の生き甲斐なのです。若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。

いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。

これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。

「ひろば」(至光社)53号(1972年4月)より