ちひろの平和への願い

水仙のある母子像 1972年

世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを

「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」
いわさきちひろ 1972年

娘時代を戦時下に過ごしたちひろは、子どもたちの夢や希望、生命をも奪う、戦争の悲惨な現実を目の当たりにします。そして、戦争では、一番弱いものが犠牲になると痛感しました。

戦後、絵本画家として自立したちひろは、一人の子どもの母親となります。母となった気持ちを、「うしおのように流れ出す愛情を、どうしようもなくて」と表現したちひろ。そのまなざしは、わが子だけではなく、世界の子どもたちに向けられるようになります。

1960年代から70年代前半、ベトナム戦争が激化していくなかで、ちひろは戦争をテーマにした絵本を手がけます。ちひろは、戦争の悲惨さや残虐さを直接表現した絵ではなく、戦争のなかで生きる子どもの、懸命な姿や、未来を失い絶望した表情を描きます。そこには、かけがえのない命や平和の大切さ、それを守りたいというちひろの切実な思いがありました。

あどけないあかちゃん、生命力に満ちた子ども、そして戦禍のなかで生きることを余儀なくされた子ども。ちひろが未来の、そして平和の象徴として描いた子どもたちひとりひとりに、「世界中のこども みんなに 平和としあわせを」という願いが込められています。

ちひろと戦争

たたずむ少年「戦火のなかの子どもたち」(岩波書店)1972年

ちひろが経験した日本の戦争

ちひろは、戦時下に青春時代を過ごします。女学校に入った12歳のときに満州事変が起こり、女学校を卒業した17歳のときに日本が中国への全面戦争を開始。日本の敗戦で第二次世界大戦が終わったのは、26歳のときでした。

父親が陸軍の建築技師として、母親は教師の職を辞した後、大日本連合女子青年団の主事(※1)として大陸の花嫁(※2)を送り出す仕事に就き、両親ともに国策に協力する立場でした。そのため岩崎家は、当時としては恵まれた生活を送っていました。しかし、1945年5月25日、ちひろは空襲で家を焼け出され、炎の海のなか、命からがら逃げ惑うという経験をします。そして長野県松本市に疎開し、終戦を迎えました。

戦後、ちひろは、太平洋戦争が日本の侵略戦争であったこと、両親が国策に貢献していたために恵まれた生活を送っていたことを知ります。ちひろは、後年こう語っています。「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動を受けました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました」。

自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と強く決意し、平和な世界の実現を願ったちひろ。その思いは、戦争をテーマにした作品だけではなく、ちひろのすべての作品の根底にあります。

※1 大日本連合女子青年団
1927年に、全国の女子青年団の連合体組織として発足。文部省直轄の、社会教育行政を担う全国組織で、特に若い女性を戦争体制に組み込むための機能を果たした。1941年には、大日本青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会と統合し、大日本青少年団となる。

※2 大陸の花嫁
太平洋戦争中、満州開拓移民に嫁いだ女性。国策である「満州移民」政策や、昭和恐慌による農村窮乏の結果、増加した開拓民に配偶者を確保する必要があり、国は日本各地に女子訓練施設をつくったり、見合いを斡旋するなど、積極的に「大陸の花嫁」を育て、満州へ送るための政策を行った。大陸の花嫁の多くは、日本の敗戦により満州の地に置き去りにされ、命を落としたり、「中国残留婦人」として過酷な人生を歩むこととなった。

ベトナム戦争と日本

爆撃機「戦火のなかの子どもたち」(岩波書店)1972年

日本と関わりの深いベトナム戦争

アメリカの太平洋軍司令官が「沖縄なくして、ベトナム戦争を続けることはできない」と語ったように、日本はアメリカ軍にとって、重要な後方基地でした。アメリカ施政下にあった沖縄の嘉手納基地からはB52戦略爆撃機が飛び立ち、ベトナムに爆弾の雨を降らせました。また、爆弾や毒ガス、軍服、死体袋、車両、電気製品など、アメリカ軍にとって必要な物資をつくり、日本の産業界は、「ベトナム特需」で潤いました。

一方で、ベトナム戦争の激化にともない、国内での反戦運動も大きく広がります。反対集会やデモ、ベトナム人民支援の募金など、さまざまな活動が行われました。

ちひろとベトナム戦争

1967年、反戦運動が広がるなか、ちひろは被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』を描きました。ちひろにとって、初めて戦争をテーマにしたこの絵本には、戦争を知らない若い世代に、戦争の悲惨さを知ってほしいという思いがこめられています。

1970年、ベトナムの子どもを支援する会(※1)が呼びかけた反戦野外展(※2)には、「ベトナムのこども 私たちの日本のこども 世界中のこどもみんなに平和と しあわせを」という言葉を添えた作品を出展します。

ちひろがベトナム戦争をテーマに描いた絵本は2冊あります。1冊目の絵本『母さんはおるす』は、ベトナム戦争中、もっとも激しく「北爆」が行われた1972年に発表されました。同じ年、ちひろはグループ展に、「子ども」と題した3枚の絵を出展します。多くの出展作家が、新作ではなく、絵本や挿絵の原画を並べるなか、ちひろの作品はそれまでのものとは、雰囲気の異なる新作でした。「私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった、美しい子どもに、見えてしまう」と語り、常にいのちの輝きを感じさせる子どもを描いたちひろが、虚無の表情を浮かべる子どもを描いたのです。3人の「子ども」には、戦争への怒りや悲しみがあふれています。

「子ども」をきっかけに、翌1973年、2作目の『戦火のなかの子どもたち』が誕生します。入院で制作が中断されることがあっても、「私のできる唯一のやり方だから」と、はやる気持ちで取り組み続けた末の完成でした。

『戦火のなかの子どもたち』を書き上げて1年後の1974年、ちひろは他界します。ベトナムに平和が訪れたのは、ちひろの死の8ヵ月後、1975年4月のことでした。

※1 ベトナムの子どもを支援する会
1967年、日本児童文学者協会などが主催した「ベトナムの子どもを支援する集い」をきっかけに発足した。子どもの文化にかかわる人々が参加し、それぞれの立場からベトナム反戦運動を展開した。

※2 反戦野外展
若手絵本画家のオピニオンリーダーだった田島征三を中心に、西村繁男、長谷川知子、いまきみちなど後に絵本やイラストレーションの世界で活躍する若手作家が数寄屋橋の西銀座デパート前で開くようになったポスター展。 1967年11月に第一回が開催され、70年代に入ると毎月1回行われるようになった。手塚治虫、長新太、和田誠など、執筆を依頼された著名な絵本画家やイラストレーターも出展した。1980年頃まで実施された。

願いをこめた絵本

1960年代後半から70年代前半、ちひろは、戦争をテーマにした3冊の絵本を手がけました。これらの絵本には、子どもたちの平和としあわせを願った、ちひろの想いがこめられています。

絵本『わたしがちいさかったときに』

1945年8月6日に広島、9日には長崎に、原子爆弾が投下されました。投下から数年以内で、34万人以上の人が死亡したといわれます。また、放射能などの影響で、被爆した人々だけでなく、その子どもや孫までも、今なお苦しみ続けています。

この絵本は、広島で被爆した子どもたちが体験をつづった詩や作文に、ちひろが絵をつけたものです。 取材旅行で広島を訪れたちひろは、亡くなった人々を思い、一睡もできませんでした。

トマトと少女 1967年

この絵本には、死体や傷ついた子どもの姿ではなく、遊んでいる子どもたちや、防空ずきんにくるまれたあかちゃん、死んだあかちゃんを抱く盲目の母親など、その日、広島に生きていた母親や子どもの姿が描かれています。描きあげたあと、「戦争の悲惨さというのは子どもたちの手記を読めば十分すぎるほどわかります。私の役割は、どんなに可愛い子どもたちがその場におかれていたかを伝えることです。」 とちひろは語っています。

無題 小学5年 佐藤智子
よしこちゃんが
やけどで
ねていて
とまとが
たべたいというので
お母ちゃんが
かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
いもばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた
『わたしがちいさかったときに』本文より 文・佐藤智子

絵本『母さんはおるす』

1965年から1975年まで続いたベトナム戦争では、100万人以上のベトナムの人々が犠牲となり、そのおよそ半数が子どもだったといわれています。

『母さんはおるす』はベトナム戦争のさなか、アメリカ軍によるベトナム全土への無差別爆撃が繰り返される1972年に出版されました。

原作はベトナム人の作家、グェン・ティ。ベトナム戦争のなか、祖国を守るために日々戦場に出かけていく母親と、その帰りを待ちながら、たくましく生きる5人の姉弟の生活を描いた物語です。

「戦場のなかの子どもでも、ベトナムの写真などをみると、子どものかわいらしさはたとえようもない」と語ったちひろは、「子どもは全部が未来」という思いをこめて、深刻化する戦況のなかで明日を信じ、無邪気に、懸命に生きるかわいい子どもたちの姿を、生き生きと描きだしました。

1973年1月、この絵本に続いて、絵本『戦火のなかの子どもたち』を描いている時期、共同通信配信の地方新聞紙上に、ちひろは次の詩を発表しています。

いつも まぶたにうかぶのは
母さんが戦場にいって
おるすのこどもたち
まちにまった母さんが
今日は帰ってきたとしても
あした かえってこれるだろうか
あした かあさんがかえったとしても
そのまえに こどもたちの頭の上に
爆弾の雨がふらないとはかぎらない
日本の南のベトナムの国に
爆弾をはこぶ飛行機を
とばすのはだれ
どうか日本の母さんたち
やさしい世界の母さんたち
おるすのこどもをたのみます

幼い兄弟を抱くお母さん 1972年

絵本『戦火のなかの子どもたち』

ベトナム戦争の末期、 1972年から1973年にかけて、ベトナム全土への爆撃が激しく行われているころに『戦火のなかの子どもたち』は描き始められました。「ベトナムの本を続けてやるのも、私はあせって、いましなければベトナムの人は、あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないかと思って・・・。そうすると一日も早くこの絵を書き上げないと・・・。」と語ったちひろは、『母さんはおるす』の完成後、すぐにこの絵本にとりかかっています。

日本にある米軍基地から、ベトナムの子どもの頭上に日々爆撃機が飛び立ってゆく現実に心を痛めたちひろは、ベトナムの子どもたちに思いをはせ、自らが体験した第二次世界大戦と重ね合わせながら、この絵本を描きました。

絵本の最後にちひろはこう記しています。

「戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。こどもは、そのあどけないやくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。」

この絵本の制作時、すでに体調を崩していたちひろは、絵本の完成から1年後の1974年8月8日、ベトナム戦争の終結を知ることなく他界します。『戦火のなかの子どもたち』は、ちひろが最後に完成させた絵本となりました。

赤いシクラメンの花は
きょねんもおととしも そのまえのとしも
冬のわたしのしごとばの紅一点
ひとつひとつ
いつとはなしにひらいては
しごとちゅうのわたしとひとみをかわす。
きょねんもおととしも そのまえのとしも
ベトナムの子どもの頭のうえに
ばくだんはかぎりなくふった。
赤いシクラメンの
そのすきとおった花びらのなかから
しんでいったその子たちの
ひとみがささやく。
あたしたちの一生は
ずーっと せんそうのなかだけだった。
『戦火のなかの子どもたち』本文より 文・いわさき ちひろ

シクラメンの花のなかの子どもたち 1973年