いわさきちひろ 顔を洗う男の子 1956年

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ちひろの歩み―童画から絵本へ—

「わたしの好きなちひろ展」との同時開催となる本展では、1940年代後半から70年代にかけての子どもの本の大きな転換期に活躍したいわさきちひろの画業をたどります。

 

童画家として

子ども時代に絵雑誌「コドモノクニ」を目にして育ったちひろは、岡本帰一や武井武雄、初山滋の描く、夢あふれる童画に憧れて育ちました。「童画」ということばは、子どものために描かれた絵の総称として大正時代に生まれたことばです。1920年代から30年代、絵雑誌「コドモノクニ」(1922年創刊)で活躍した草創期の童画家たちは、童話や童謡の挿し絵と見られていた子どものための絵を、文学から離れて一枚絵としても鑑賞できるものへと高めよう、子どもの純粋な童心に届く絵を描こうと、新しい童画を生み出し、子どもたちを魅了しました。
第二次世界大戦後の1946年7月、戦争によって根絶やしにされた子どもの文化を復興しようと、童画家たちは日本童画会を設立します。戦後、画家として生きる決意をしたちひろは、日本美術会や前衛美術会に参加する一方で、1947年11月に日本童画会にも入会し、憧れの武井や初山に出会い、新しい時代を担う童画家として期待されました。仕事の上でも新聞や婦人雑誌に絵を描くかたわら、次第に児童雑誌や童話集、紙芝居の仕事の依頼が増えていきました。
当初から子どもを画題にした絵の多かったちひろですが、母親となって子育てを始めてからは、息子やその友だちをモデルにいきいきとした子ども像を描いて母親たちの共感を呼びました。「よいこのくに」「キンダーブック」「こどものせかい」など数多くの絵雑誌に描くようになり、気がつけば自然に童画家と呼ばれるようになったといいます。

いわさきちひろ 「あかい せーたー」 1959年 絵雑誌「チャイルドブック」(チャイルド社)より 1959年12月号

絵本画家へ

1956年に創刊された福音館書店の月刊物語絵本「こどものとも」は、一冊すべてを一人の画家が描く「絵本」を月刊で出版する画期的な企画でした。その準備のためにいろいろな絵雑誌に目を通した編集者の松居直は「いわゆる日本の童画は、その頃マンネリズムで非常に類型的になっていて、ちっとも面白くない」と感じていたといいます。そのなかで、ちひろのフレッシュな感覚が印象に残り、「こどものとも」12号に起用しました。この『ひとりでできるよ』が、ちひろの最初の絵本となりました。

『ひとりでできるよ』「こどものとも」(福音館書店)より 1957年3月号

1960年代に入ると、日本でも絵本を手がける出版社が増え、赤羽末吉や瀬川康男、長新太、田島征三ら童画の枠からはみ出した画家たちが活躍を始め、「絵本」が画家たちの新たな表現の舞台として注目されるようになりました。
ちひろの仕事の中心も1960年代半ばには絵雑誌から絵本へと移っていきました。1968年に発表した『あめのひのおるすばん』は、ちひろが独自の絵本の表現をつかんだ作品です。一枚絵としても完成度の高い童画のような描き方ではなく、最小限の描写に抑えた連続する絵とことばによって、雨の日にひとりで留守番をする少女の心の世界を描き出しています。

『あめのひのおるすばん』(至光社)より 1968年

甘い絵といわれることに悩んでいたちひろに、共同制作者である編集者・武市八十雄は、かわいいものに目がいくのは天性の資質なのだからその道をいこうと励ましたといいます。自分のなかにある幼いころの心を呼び覚ましてのびやかに描いたこの絵本は、ちひろの画業の大きな転機となると同時に、日本の絵本に「感じる絵本」と呼ばれる新たなジャンルを開きました。
ちひろは絵本づくりへの挑戦を続け、1974年に55歳で亡くなるまでに40冊余りの絵本を描きました。今も愛され続ける絵が生まれた背景をご覧ください。