いわさきちひろ ほおじろの巣と少年 1971年

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ちひろが描いた日本の児童文学

いわさきちひろが生まれた1918年は、童話童謡雑誌「赤い鳥」が創刊された年でした。以後同類の雑誌が次々創刊され、童心主義に根差した童話・童謡が栄えました。この大正から昭和にかけて、ちひろは絵雑誌「コドモノクニ」を愛読し、新しい児童文化を享受しながら子ども時代を過ごしました。小川未明や浜田広介、坪田譲治をはじめ、文壇の作家たちも多くが童話を手掛けていたこの時代、幼いちひろも童話を読んで、夢をふくらませたに違いありません。
しかし1930年代に入ると日本は長い戦争の時代に突き進み、国家主義のもと子どもの人間性は顧みられなくなり、児童文学も少国民文学と呼ばれて、戦意高揚の道具に利用されていきました。
1945年に第二次世界大戦に敗れ、民主主義の国づくりが始まると、GHQの検問や著しい物資不足のなか、多くの児童雑誌や絵本が出版されました。子どもたちに文化を届けようとする熱い思いが高まったこの時代に、ちひろは画家として出発しています。当初は戦前の児童文学の復活が主でしたが、次第に新たな創作文学も生み出され、ちひろも筒井敬介の『チョコレート町1ばんち』をはじめ、関英雄や山中恒、早乙女勝元らの著書に絵を描きました。

『チョコレート町1ばんち』(季節社)より 1949年 筒井敬介・文

ちひろが日本の児童文学を最も多く手がけたのは1950年代後半から60年代半ばにかけての全集ブームの時代でした。『日本児童文学全集』(偕成社)『少年少女日本文学全集』(講談社)など豪華な全集の装丁や口絵、挿し絵を数多く手がけ、小川未明や鈴木三重吉、浜田広介、坪田譲治、島崎藤村、川端康成らの戦前の作品や、壺井栄、石井桃子、岡本良雄、太田博也らの戦後の作品にも絵を描いています。

「ノンちゃん雲に乗る」『少年少女日本文学全集』(講談社)より 1962年 石井桃子・文

「ノンちゃん雲に乗る」『少年少女日本文学全集』(講談社)より 1962年 石井桃子・文

1960年代半ばから、多くの出版社が絵本の出版に乗り出すなかで、ちひろの仕事の中心も絵本へと移行し、日本の作家のものでは浜田広介の『りゅうのめのなみだ』やあまんきみこの『おにたのぼうし』、斎藤隆介の『ひさの星』などを手がけました。

りゅうに乗る男の子

りゅうに乗る男の子『りゅうのめのなみだ』(偕成社)より

戸口に立つおにた

戸口に立つおにた『おにたのぼうし』(ポプラ社)より 1969年 あまんきみこ・文

童心社の「若い人の絵本」シリーズは、若い人を対象に好みの文学を選んで描くことのできる企画で、4作目には娘時代から愛読していた宮沢賢治の童話6篇を『花の童話集』に描いています。
7作目には小川未明の童話に取り組みました。「赤い蝋燭と人魚」は1921年に発表された童話で、社会のなかで虐げられたものの悲しみを抒情豊かに描き出し、今も時代を超えて読み継がれています。

人魚の少女

人魚の少女『赤い蝋燭と人魚』(童心社)より 1973年 小川未明・文

戦後の児童文学者たちの間で、乗り越えるべき古い文学者として批判された未明ですが、ちひろは幼いころからその童話に親しみ、共感するところがあったのでしょう。童話の舞台となった風土を見たいと病を押して新潟の直江津まで足を運び、日本海をスケッチしました。いくつかの童話を1冊の絵本にまとめる予定でしたが、未完のままちひろが55歳で亡くなり、没後、習作も含めた遺作によって『赤い蝋燭と人魚』が出版されました。
本展では、ちひろが日本の児童文学のために描いた作品を展示し、その表現の変遷や視覚的な解釈等を探ります。