いわさきちひろ ストーブに薪をくべる少女 1973年

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【開館20周年記念 Ⅳ】

ちひろと旅する信州

両親の郷里であり、いわさきちひろの心のふるさとであった信州。幼いころから晩年まで、ちひろは家族や友人とともに信州各地を訪れ、1966年には、黒姫に第二のアトリエともいえる山荘を建てています。東京育ちであるにも関わらず、自ら「信州人」であると語るほど、ちひろはこの地を愛していました。本展では、原風景・信州のイメージから生まれた作品や、黒姫で描いた絵本、信州のスケッチなどを展示し、ちひろと信州の関わりを紹介します。

松本市・梓川村-終戦を終えて

父・正勝は梓川村(現松本市)、母・文江は松本市新橋の出身でした。両親の里帰りの際には、登山や川遊びをするなど、ちひろは信州でのびのびと過ごしました。
ちひろの娘時代は、日本が戦争へと突き進み、戦況が激化していった時代と重なります。1945年5月25日、東京・山の手の空襲で、ちひろと家族は東京・中野の家を焼け出され、母の実家のある松本に疎開します。8月15日、新橋から二次疎開のために向かった梓川村の父の実家で終戦を迎えました。ちひろが終戦の翌日から書き始めた「草穂」と題した日記の冒頭には、梓川から望む金松寺山が鉛筆で描かれています。ちひろは後に、当時の心境を「戦いがおわった日、心のどこかがぬくぬく燃え、生きていく喜びがあふれだした。忘れていた幼い日の絵本の絵を思いだし、こどものころのように好きに絵を描きだした」と語っています。その後、自らの生きる道を模索していたちひろは、翌年の5月、画家を目指して単身上京します。信州は若きちひろが画家になる夢を取り戻し、自立して生きることを決意した地でもありました。

奈良井川のほとりで 妹・世史子(左)と 1922年

日記「草穂」より 梓川村より金松寺山をのぞむ 1945年

松川村―わが子に会いに

安曇野の北端にある松川村は、戦後、両親が開拓農民として入植した土地でした。ちひろは松川村を度々訪れ、山並みや父母の暮らしなどをスケッチしています。
31歳のときに、ちひろは松本善明と結婚し、翌年、息子が誕生します。当時、職を失い、司法試験を目指して勉強中だった夫に代わり、家計を支えていたちひろは、絵の仕事に集中するため、乳飲み子だった息子を松川村の両親のもとに預けます。親子3人の暮らしを始めるため、東京で懸命に働き、お金が貯まると、汽車で8時間、電車で1時間、徒歩で40分かけて、息子に会いに何度も松川村に足を運んだ時期もありました。画机の前に貼っていた無垢な寝顔を描いたスケッチからは、「うしおのように流れだす愛情を、どうしようもなくて」と記した息子への思いが感じられます。

長男・猛 1951年

小谷温泉―『りゅうのめのなみだ』

古くから湯治場として親しまれ、深い谷合にある小谷温泉には、息子が幼いころ、毎年のように正月に訪れていました。
1965年、『りゅうのめのなみだ』を手がけるにあたり、ちひろは小谷温泉の旅館に逗留しています。宿の裏山を登ったところにある神秘的な鎌池や、道端の倒木、枯れ木、草花など、ちひろは宿周辺の風景をスケッチしました。中国の山奥が舞台となったこの絵本には、小谷の自然が描きこまれています。

小谷温泉・鎌池 釣り人 1965年

涙を流すりゅうと男の子『りゅうのめのなみだ』(偕成社)より 1965年

黒姫高原―第二のアトリエ

1966年、黒姫山の山麓に広がる信濃町の黒姫高原に、ちひろはアトリエを兼ねた山荘を建てます。ちひろの好みを生かして設計されたこの山荘を、春夏は「野花亭(やかてい)」、秋冬は「雪雫亭(せっかてい)」と呼んでいました。四季折々の自然に出会える黒姫を、ちひろは毎年のように訪れ、絵本を制作しています。

『花の童話集』

戦後間もないころ、宮沢賢治の文学に深く傾倒していたちひろは、50歳のときに、草花を題材にした賢治の童話6編を収めた絵本『花の童話集』を手がけます。この絵本は、ちひろの強い希望により、新緑の季節の黒姫山荘で制作されました。ちひろは、賢治が愛した岩手の自然を、黒姫の自然のなかに見出しながら、絵本のなかに描いています。山道を散歩し、「賢治も、こうして山道を歩きながら、木や花や草や鳥たちとおしゃべりしたんだと思うの」と語っていたちひろは、自然と対話する賢治のまなざしに、自らのまなざしを重ねていたのでしょう。この作品を「私の宮沢賢治解釈」と語っています。

ひなげし『花の童話集』(童心社)より 1969年

『あかまんまとうげ』

『あかまんまとうげ』の表紙には、鮮やかな若草色に包まれ、薄紫のすみれの花を髪に飾る少女の姿が描かれています。この絵本には、生命の息吹に萌える春の黒姫の情景が表現されています。黒姫の豊かな自然と、日常を離れて過ごす静かな時間が、ちひろの創作と心を支えていたことがわかります。

わらびを持つ少女『あかまんまとうげ』(童心社)より 1972年