赤羽末吉 『だいくとおにろく』(福音館書店)より (部分) 1962年
絵本の主題にふさわしい表現を求めて日本の伝統的な美術を研究し、独自の解釈で絵本に取り入れた赤羽末吉。本展では、赤羽の絵本に見る絵画表現に着目します。
日本画家から絵本画家へ
「日本画」ということばは、明治時代に西洋画が日本に入ってきたときに、日本に伝わる画材を用いた絵画を区別するために生まれたことばです。赤羽は絵本を描くとき、主に墨や岩絵の具などの日本画の画材を用いています。
赤羽が最初に日本画を学んだのは、帝展系の日本画家に見習いに入った18歳のときでした。しかし、席画会で掛け軸にする絵を何枚でも同じように描くのを見て、自分には向かないと感じ、1年ほどで門を出たといいます。
本格的に日本画を描き始めたのは旧満州(中国東北部)に渡った20代からで、甲斐巳八郎ら画家の仲間に出会い、切磋琢磨しながら技術を習得していきました。1940年からは満州国美術展覧会で3年連続特選賞を受賞、満州画壇で注目を集めます。しかし、日本が第二次世界大戦に敗れて満洲国は消滅し、赤羽は1947年に、いのちがけで日本に引き揚げました。
15年間いた中国東北部から日本に帰り、赤羽はまず湿潤な風土の美しさに魅せられたといいます。特に雪国に憧れ、生活が落ちつくと毎年のように通って、その風俗を写真やスケッチで記録しました。赤羽にとって、しっとりとした雪国の風土はまさに墨絵の世界でした。赤羽が墨絵で描いた最初の絵本『かさじぞう』を発表したのは1961年、50歳のときでした。水気をたっぷりふくんだ墨線は、雪の湿り気とともに、人情のあたたかさ、素朴さを感じさせ、まさにこの雪国の民話の心を伝えています。
墨絵と大和絵の二刀流
3作目の絵本『だいくとおにろく』は、モノクロとカラーの頁を交互に使うという印刷の制約がありましたが、墨絵と大和絵風の絵を効果的に使い、ドラマを見事に盛り上げています。
赤羽はその後も好んで墨絵と大和絵風の絵を使い分けて絵本を描いており、この二刀流は好きだった宗達の影響かもしれないと語っていました。江戸時代初めに活躍した京都の画家・俵屋宗達は琳派の祖といわれる人物です。宗達は町衆の出といわれていますが、自ら絵屋を興し、絵に関するあらゆる依頼を引き受けました。平安時代の大和絵を新しい感覚で取り入れ、おおらかで型破りな独自の画風を打ち立てた画家としての姿勢にも、赤羽は共感していたのでしょう。赤羽もそれぞれの絵本の主題にふさわしい表現を求めて、日本の伝統的な絵画を研究しています。
「私にはカマエはない」
「私にはカマエはない。自分のワザなど知れたものである。そんなものをヒケラカさず、与えられた主題をどう生かすか、その主題のねらいは何か、それに専念する」(「八方やぶれの展開」1981年)と赤羽はエッセイに記しています。物語を視覚的に解釈し、筆を変え、和紙を選んで描かれた絵本は、同じ画家の絵とは思えないほどバリエーションに富んでいます。
全10巻からなる壮大な歴史物語『源平絵巻物語』は、岩絵の具や金銀の箔も用いて華麗で重厚な画面に仕上げています。
一方、民話『したきりすずめ』では、墨刷りの版本に少ない色数の手彩色を施した江戸初期の丹緑本の形式を取り入れ、細い墨線に、朱と黄、青の色を施しています。この絵本に用いた、切り抜いた紙を型にして絵の具を刷り込むステンシルの彩色方法は後の絵本にも度々用いています。
赤羽流「鳥獣戯画」
3巻にわたる『おへそがえるごん』は、各巻が100頁以上もある愉快な自作の長編物語絵本です。おへそを押すと口から雲が出るかえるの「ごん」が、少年「けん」やへびの「どん」と友だちになり、戦の荷運びに連れ去られたけんの父親を捜す旅に出ます。化け物や山賊を相手に人間さながらの活躍をみせるごんの姿は、絵巻「鳥獣戯画」に登場するかえるに想を得ています。墨によるのびやかな線画の表現や、横長の頁をめくるごとに左から右へと時間や空間が移動していく画面構成も、絵巻をけんきゅうするなかで獲得した表現でしょう。
1980年に、日本で最初に国際アンデルセン賞画家賞を受賞した赤羽は、「日本の古い伝統的な美術の美しさに現代的な解釈を加えたものを、次の世代の子どもに伝えたい」(国際アンデルセン賞画家賞授賞式挨拶 1980年)と授賞式で語りました。子どもたちに開かれた日本の美術のとびらともいえる赤羽末吉の絵本をご覧ください。
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