ちひろの技法について

ぶどうを持つ少女 1973年

水彩絵の具を駆使し、やわらかで清澄な、独特の色調を生み出したいわさきちひろ。西洋で発達した画材を用いながら、水をたっぷり使ったにじみやぼかし、大胆な筆使いを生かした描法などは、むしろ中国や日本の伝統的な水墨画に近い表現をみることができます。あかちゃんや花びらには、輪郭線を描かずに色のにじみで形を表す「没骨(もっこつ)法」が用いられています。ほかに、先に塗った色が乾く前に別の色をたらして複雑ににじませる「たらし込み」や、筆のかすれたタッチを生かした「渇筆(かっぴつ)法」など、さまざまな技法も使われています。

また、こうした水彩表現とあわせて、線の美しさもちひろの絵の魅力のひとつです。画家を志した20代後半からちひろはデッサンの習練に励み、息子を得てからは成長していく姿を数多くのスケッチに残しました。納得のいくまで線を追求し続けたことが、流麗な線を生み出す原点となっています。ちひろは後年、どんな格好でも人間の形ならモデルなしで描けると語っています。優れた技術に、母親としての愛情と、みずみずしい感受性が融合したところに、ちひろの作品が生まれたといえるでしょう。

ちひろの水彩技法

水彩絵の具を駆使し、やわらかで清澄な、独特の色調を生み出したちひろ。西洋で発達した画材を用いながら、水をたっぷり使ったにじみやぼかし、大胆な筆使いを活かした描法などは、むしろ中国や日本の伝統的な水墨画に近い表現をみることができます。何気なく描かれたようにみえる絵の背後には、さまざまな技法がかくされています。

緑の風のなかの少女 1972年

1白抜き

白い紙の地色を残して、その周りに色を塗ることで、帽子の形を表している。
2たらし込み

たっぷりと水を含んだ筆で茶色を薄く塗り、その色が乾かないうちに濃い茶色をおく。
濃い色が薄い色ににじみ込んで乾き、偶然的な色のたまりができている。
3渇筆法

筆に水をあまり含ませないで、絵の具をかすれさせている。
4潤筆法

筆に水を多く含ませて、絵の具をにじませている。絵の具が乾く前に別の色をおくと、色が混ざり合い、複雑な色調が得られる。

制作プロセス

画用紙にたっぷり水を含ませた上に、水彩絵の具をたらすと、色が水に溶けて広がります。ちひろはこの水彩絵の具の水に溶ける特性を生かして、独特の色調を生み出しました。実際に「ひざを抱える少年」を描いたときの手順を、残された写真から追ってみました。

ひざを抱える少年 1971年

1水を刷いた上に色をおく

スケッチブックから紙を破り取って、準備は完了。イメージをしっかりと固めてから、鉛筆で少年の輪郭線を描き、まず肌の色を塗る。次に服の部分に水を刷いてから、紫、橙、緑、赤紫の絵の具をおいて、にじませていく。
2髪を白く塗り残して、
背景に色を塗る

服に青が加えられた。色のにじみが広がっているが、まだ絵の具が乾いていないので濃くみえる。次に背景にとりかかる。服の部分は乾いていないので、頭の後ろから赤を大胆に塗り、水を加えてぼかしていく。髪は白く塗り残している。
3水でぼかす
背景に、赤や緑、青、青紫、紫、橙の絵の具をおき、水でぼかしながら広げている。水を含ませた筆で画面を洗うようにしながら、さらに色を薄め、台にしているスケッチブックごと紙を傾けて、色を流している。
4濃い色をたらし込む
背景全体に淡く色が広がった。前に塗った絵の具の水分が乾ききる前に、体の前方に濃い紫をたらし込んでいる。濃い色が淡い色のなかにじわじわと静かににじみ込んでいく。画面右上の赤の部分にも、青をたらし込んでいる。
5水分が乾くと、色が淡くみえる
絵が完成した。水分が乾き、絵の具のにじみが止まる。後からたらし込んだ紫のにじみの広がりも止まり、ふしぎな形が表れている。塗られたときには濃く感じられた色も、乾くと紙の地色の白が透けて、淡くみえてくる。

『ちひろの絵のひみつ』(講談社)より