対談 上野千鶴子×松本由理子「いわさきちひろ・50代の挑戦」

ちひろとの出会い
上野 私、昔からちひろさんの絵が大好きだったの。とりわけアンデルセンの『絵のない絵本』は大好きで。アンデルセンっていうと、ちひろさんの挿絵付きじゃないと思い浮かばないくらい、私のなかでくっきり結びついている。ずーっとちひろさんのファンだったんです。

50代という時期
上野 クリエイティブな仕事をしている人の50代って、転機だと思うんですよ。いい意味でも悪い意味でも。50代って、いろんな意味で自分の限界がきて、技術は円熟していても、クリエイティビティが下がっていく。にもかかわらず、社会的地位はピークに達する。そこでその転機を安全パイのほうにギアチェンジすると、自己模倣が始まる。自分のクリエイティビティを失いながら、過去の業績にだけあぐらをかいて生きることのつらさは、当人が一番よく知っている。
「この人からもう新しいものは何も出てこない」と思われるときって、本当にきつい。人の書いたものをずーっと読んでいて、あるときふっと「あ、この人のものは、この後もう読まなくていいわ」と思う一瞬があるんです。そう思うということは、私自身が読者からそう思われるときがいつか必ず来るということ。だから、自分の過去の業績を繰り返すのは止めよう、と思った。私が50歳になったときに介護保険ができました。それで、私は自分の分野を社会福祉といわれる分野にシフトしたんです。自分にとって未知の分野に、まったくの素人として。
ちひろさんには「この人、もうちょっと生きたらどうなったんだろうな。わかんないね」っていうところがありますよね。晩年の作品は技巧的には完成の域に達していると思いますが、たぶんこの人はそれを崩して変えていくだろうな、別のところに自分を発展させていく、力も意志も持った人だろうなと、どこか思わせるところがあります。それを思えば思うほど、やっぱりちひろさんの55歳の死というのは、本当に惜しいというか、無念な気がしますね。

松本 病室で、「今度こそは無欲な絵を描きたい」と言っていたと聞きました。

上野 ちひろさんはずーっと、作品を商品として売ってきた人ですよね。描いたものは全部、お金になっていく。きっと、商品にしなくてもいいものを描きたい、注文がこない作品をつくりたいと思う気持ちって、強かっただろうなと思います。

ちひろが守りたかったもの
上野 彼女は無垢な世界、美しい世界を描き続けたわけだけれど、それは彼女の周囲の現実がそのまんまあらわれたというよりも、彼女のなかに、外の世界からひしとして守る世界、自分に倫理的な負荷をかけて自身が守り抜いてつくりあげてきた、無垢な世界があったんだと思うんです。

松本 ちひろは、小さいものやかわいいものが大好きでした。絵本づくりのパートナーだった武市八十雄さんが、「ちひろさんは、子どもが千分の一秒、百万分の一秒に見せる、どの子のなかにもあるかわいらしさを、瞬時に描きとめられる人だった」と言っています。どうしても、そこに目がいく。人間の醜い部分もいっぱい見てきたからこそ、「子どもは、本当はこんなにかわいいの」と自分に言い聞かせて、心のバランスをとるかのようにかわいい子、かわいすぎる子を描き続けたんじゃないかと思います。

上野 千分の一秒の無垢なら、由理子さんにも、私にもあるわよ(笑)。だからこそ、ちひろさんの絵を見ると、自分のなかの大事に守ってきた無垢の部分が触発されるんでしょうね。

闘い続けてきた人
上野 彼女が初めに描いたのは、共産党のパンフレットかなんかの挿絵ですよね。
普通、絵描きが政治的な絵を描くと、まずプロパガンダに利用される。そうすると、やっぱりそれっぽい絵を描いてしまいがちなんだけれど、彼女はそうならなかった。それはどうしてなんでしょうね。

松本 彼女にとって思想とは、二度と戦争をしない、子どもたちみんなが幸せに暮らせる社会にしたいということ。その思いの純粋さのままに描き続けてきた。だから、いわゆる政治的なプロパガンダに合わせたような絵は描かなかった。自分が描きたいものしか描けない人だった。ちひろは、「わたしは、この絵でいろいろなたたかいをやっていこうとせつに思います」という言葉を記しています。

上野 ちひろさんって、闘い続けてきた人ですね。そもそもこの美術館に9400枚の原画が残っていること自体が彼女の闘いの結果です。それまで挿絵や童画、商業美術というのは二流三流のアートだと思われていた。でもちひろさんは、そういうジャンルのアートの価値や評価を高めたいという熱い思いを持っておられた。彼女は一生を通して、その闘いをやってきたんだと思います。

(構成:川口恵子)

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