1918 大正7年
生後57日目のちひろ
1919年2月9日(0歳)
ちひろ誕生
父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、母・文江は女学校
の教師。当時としては珍しい共働き家庭だった。
昭和天皇即位の記念式典に出席した
両親の記念に/1928年11月
左より、ちひろ(9歳)、父・正勝(45歳)、
妹・世史子(8歳)、妹・準子(5歳)、
母・文江(38歳)
1931 昭和6年
府立第六高等女学校五年生
1935年(16歳)
女学校に入学
ちひろは絵に加えて、スポーツも得意で、
スキーや登山を好んだ。
第18回朱葉会洋画展の入選者を祝う茶話会にて
1936年5月(17歳)
前列左端ちひろ、2列目左より 有島生馬、藤田嗣治、小寺健吉
ちひろは14歳で洋画家・岡田三郎助の画塾に通いはじめた。岡田から紫の使い方に示唆を受けた、と後に語っている。
意に沿わぬ結婚
三人姉妹の長女・ちひろは、1939年4月(20歳)、婿養子
を迎えて最初の結婚をし、夫の赴任先の大連へ渡ったが、
1941年3月(22歳)、夫の自殺により帰国する。
1939 昭和14年
お見合い写真 1938年(19歳)
1944 昭和19年
満州国東安省勃利 森岡部隊長宿舎前にて
1944年6月(25歳)
後列左より3人目ちひろ、2人目は妹世史子、前列左より森岡部隊長、中谷泰
中国東北部(旧満州)へ
ちひろは女子義勇隊に同行し、書道の教師として中国東北部に渡ったものの、現地は書道の教師ができるような状況ではなかった。偶然、勃利方面の部隊長が、ちひろの書道の教え子の伯父にあたる森岡大佐で、ちひろを官舎に引き取り、戦局の悪化を見越して、3ヶ月後に日本に送り帰した。
翌年5月、空襲で家を焼かれる。
新聞記者・いわさきちひろ
疎開先の母の実家(長野県・松本市)で終戦を迎える。翌年、
松本市で日本共産党に入党。春、単身で上京し、日本共産党
宣伝部・芸術学校に入る。赤松俊子(丸木俊)に師事する。
1946 昭和21年
「婦人民主新聞」1948年9月2日
1947 昭和22年
紙芝居「お母さんの話」
(教育紙芝居研究所)1950年
画家として立つことを決意
1947年(28歳)、日本民主主義文化連盟(文連)の依頼に
より紙芝居『お母さんの話』を描く。このころ、画家として
立つことを決意する。
愛する人との結婚
日本共産党の活動を通じてであった
7歳半年下の松本善明と結婚。
1950 昭和25年
夫・善明と1950年(31歳)
1951 昭和26年
新居のアトリエで仕事をするちひろ(33歳)と
母の背中を見つめる猛(1歳3か月)/1952年7月
長男の誕生
ちひろは、1951年4月(32歳)に長男・猛を出産した。当時、夫は弁護士を目指して勉強中で、ちひろが絵筆一本で生活を支えなければならなかったため、生後1ケ月半の息子を、長野県・松川村の両親のもとへ預けた。1952年に東京・練馬区下石神井に家を建て、親子3人で生活をはじめる。
これまでにない絵本を
ちひろは、至光社の編集者・武市八十雄とともに新しい絵本づくりを模索し始める。従来の物語絵本とは異なる「感じる絵本」ともいわれる絵で展開する絵本に取り組み、
『あめのひのおるすばん』(至光社)を制作。
1968 昭和43年
増築したアトリエにて/1963年夏(44歳)
1973 昭和48年
『戦火のなかの子どもたち』
(岩崎書店)1973年
平和への願い
ベトナム戦争が激化するさなか、1972年5月(53歳)、ちひろは童画家のグループ展にベトナムの子どもに思いを寄せて、「こども」と題した3枚の絵を出品した。これらの作品が編集者の目にとまり、絵本『戦火のなかの子どもたち』の企画が生まれる。ちひろは体調を崩し入退院を繰り返しながらも、1年半を費やして作品を描き上げた。
55歳の若さで
1974年8月8日、原発性肝ガンのため死去。
絶筆は6月に描いた「あかちゃん」。
未完の遺作『赤い蝋燭と人魚』(童心社)は翌年刊行された。
1974 昭和49年
自宅にて1973年4月(54歳)
SNS Menu