幼い頃
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1918
大正7年
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0歳
12月15日、岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生(現・越前市)で生まれる。本名知弘。 |
7月、「赤い鳥」創刊。
11月、第一次世界大戦終結。 |
1919
大正8年
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0歳
現在の東京都渋谷区道玄坂に移る。 |
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1920
大正9年
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1歳
妹・世史子生まれる。
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1922
大正11年
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3歳
東京・渋谷の四反町(現・東)に移る。
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1月、「コドモノクニ」創刊。
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1923
大正12年
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4歳
妹・準子生まれる。
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9月、関東大震災。
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1925
大正14年
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6歳
東京・渋谷の向山町(恵比寿・南)に転居。
渋谷町立長谷戸小学校に入学。 |
4月、治安維持法公布
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1927
昭和2年
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8歳
学芸会等で席画をよくする。
岡本帰一、初山滋、武井武雄らの絵を好む。 |
武井武雄の呼びかけで日本童画家協会結成。
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女学校時代
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1931
昭和6年
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12歳
東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。
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9月、満州事変始まる。
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1932
昭和7年
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13歳
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3月、満州国建国宣言。
5月、五・一五事件。 |
1933
昭和8年
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14歳
目黒区目黒に移る。岡田三郎助に師事。デッサン、油絵の勉強を始める。
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3月、日本が国際連盟を脱退。
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1936
昭和11年
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17歳
3月、府立第六高等女学校卒業。同補習科に入学。
5月、朱葉会女子洋画展に入選。 |
2月、二・二六事件。
「講談社の絵本」の刊行開始。 |
1937
昭和12年
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18歳
3月、府立第六高等女学校補習科修了。
コロンビア洋裁学院に入る。 女性書家:小田周洋について藤原行成流の書を習い始める。 |
7月、盧溝橋事件(日中戦争始まる)。
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結婚から敗戦
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1939
昭和14年
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20歳
4月、婿養子を迎え結婚。6月、夫の勤務地である旧満州大連(中国遼寧省大連市)に渡る。
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9月、ドイツ、ポーランドへ侵攻。第二次世界大戦始まる。
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1940
昭和15年
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21歳
母・文江、府立第六高等女学校を退職し、大日本連合女子青年団(のちの大日本青少年団)主事となる。
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9月、日独伊三国同盟締結。
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1941
昭和16年
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22歳
3月、夫の自殺により帰国。
書家をめざし、再び小田周洋のもとで書を学ぶ。 このころ、文化服装学院で習字を教える。 中野区千代田町(現・本町付近)に移る。 中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。 |
12月、太平洋戦争始まる。
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1944
昭和19年
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25歳
4月、女子義勇隊に同行して、中谷泰、妹・世史子らとともに旧満州勃利(中国黒龍江省)へ渡る。
夏、戦況悪化のため帰国。 |
11月、B29による東京空襲始まる。
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1945
昭和20年
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26歳
5月、東京・山の手の空襲で中野の家を焼かれ、母の実家(長野県松本市)に疎開、ここで終戦を迎える。
秋、両親が長野県北安曇郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で開拓を始める。 |
3月、東京大空襲。
8月、広島・長崎に原子爆弾投下、 日本無条件降伏、 第二次世界大戦終わる。 |
新しい出発
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1946
昭和21年
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27歳
長野県松本市で日本共産党に入党。
春、上京し、人民新聞の記者となる。日本共産党宣伝部・芸術学校に入る。 赤松俊子(丸木俊)に師事。 このころ、日本美術会、日本童画会のメンバーとなる。 |
7月、日本童画会創立。
11月、日本国憲法公布。 |
1947
昭和22年
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28歳
4月、前衛美術会創立に参加。
5月、初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞ヶ関書房)の挿し絵を描く。 日本民主主義文化連盟(文連)の依頼により、紙芝居『お母さんの話』を描く。 このころ、画家として立つことを決意する。 |
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1948
昭和23年
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29歳
新聞等のカット、挿し絵、絵雑誌、教科書の仕事を数多く手がける。油絵もよく描く。
神田・神保町のブリキ屋の二階に下宿。 |
9月、朝鮮民主主義人民共和国成立。
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1949
昭和24年
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30歳
日本共産党の活動のなかで松本善明と知り合う。
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7月、下山事件/三鷹事件。
8月、松川事件。 10月、中華人民共和国成立。 |
1950
昭和25年
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31歳
1月、松本善明と結婚。
紙芝居『お母さんの話』を教育紙芝居研究会より出版、この作品で文部大臣賞受賞。 |
6月、朝鮮戦争始まる。
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1951
昭和26年
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32歳
4月、長男・猛誕生。
6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預ける。この間、息子に会うため、頻繁に松川村に通い、多くのスケッチを描く。 |
9月、対日講和条約、日米安全保障条約調印。
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童画家として
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1952
昭和27年
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33歳
東京都練馬区下石神井(現・ちひろ美術館所在地)に家を建て、家族3人で暮らし始める。以後22年間、この地で制作活動を行う。
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1953
昭和28年
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34歳
1月、父・正勝死去。
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「岩波こどもの本」刊行開始。
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1956
昭和31年
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37歳
絵雑誌等に発表した作品を対象に、小学館児童文化賞受賞。
絵本の仕事として初めての『ひとりでできるよ』(福音館書店)を描く。 |
12月、日本、国際連合加盟。
「こどものとも」(福音館書店)刊行開始。 |
1958
昭和33年
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39歳
至光社の月刊絵雑誌「こどものせかい」に描き始める。
紙芝居『お月さまいくつ』(童心社)を描き、翌年、厚生大臣賞受賞。 |
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1960
昭和35年
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41歳
『あいうえおのほん』(童心社)を描き、翌年、サンケイ児童出版文化賞受賞。
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日米新安保条約調印。
翌年、日本童画会解散。 |
1962
昭和37年
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43歳
最後の油絵作品「こども」を描く。
教科書の絵の再使用に対して、太田大八、久保雅勇らとともに抗議、以後解決に至るまでねばり強く戦う。 |
絵にかける情熱
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1963
昭和38年
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44歳
雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙を描き始める。
3月、「ぐるうぷ堊(かべ)」を、赤羽末吉、遠藤てるよ、柿本幸造、中尾彰、渡辺三郎、丸木俊らと結成。 6月、世界婦人会議参加のため、ソビエト(現・ロシア)を訪れる。 |
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1964
昭和39年
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45歳
「童画ぐるーぷ車」を、安泰、遠藤てるよ、久米宏一、滝平二郎、東本つね、箕田源二郎らと結成。
10月、日本児童出版美術家連盟(童美連)発足。理事として画家の著作権擁護に積極的に取り組む。 |
10月、オリンピック東京大会開催。
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1965
昭和40年
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46歳
『りゅうのめのなみだ』(偕成社)『おはなしアンデアルセン』(童心社)を刊行。
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2月、アメリカの北ベトナム攻撃開始。
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1966
昭和41年
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47歳
母・文江をともなってヨーロッパ旅行。
帰国後、アンデルセンの『絵のない絵本』(童心社)を描く。 長野県の黒姫高原に山荘を建て、以後毎年ここで絵本制作を行う。 『おやゆびひめ』(ひかりのくに昭和出版)『つるのおんがえし』(偕成社)を刊行。 |
新しい絵本表現を求めて
ちひろのあゆみ | 社会の主な出来事 | |
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1967
昭和42年
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48歳
『わたしがちいさかったときに』(童心社)を描く。
夫・善明が衆議院議員となる。 『しらゆきひめ』(集英社)『りこうなおきさき』(講談社)『にんぎょひめ』『うらしまたろう』(ともに偕成社)を刊行。 |
6月、第三次中東戦争始まる。
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1968
昭和43年
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49歳
絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至光社)を描く。
以後、至光社の武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。 自伝的絵本『わたしのえほん』(みどり書房・現在は新日本出版社)を描く。 『はくちょうのみずうみ』(世界出版社)『あかいふうせん』『あかいくつ』(ともに偕成社)『愛かぎりなく‐デカブリストの妻抄』(童心社)を刊行。 |
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1969
昭和44年
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50歳
『おにたのぼうし』(ポプラ社)『あかちゃんのくるひ』(至光社)『花の童話集』(童心社)などを描く。
『ふたりのぶとうかい』(学習研究社)『あおいとり』(世界文化社)『鯉のいる村』(新日本出版社)を刊行。 |
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1970
昭和45年
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51歳
パステルで『となりにきたこ』(至光社)を描く。
現存するパステル画のほとんどは、この年に描く。 『あかちゃんのくるひ』(至光社)『おふろでちゃぷちゃぷ』『もしもしおでんわ』『万葉のうた』(ともに童心社)『にじのみずうみ』(偕成社)を刊行。 「ベトナムの子供を支援する会」主催の反戦野外展に出品。 前年脳血栓で倒れた母・文江を、下石神井の自宅にひきとる。 |
3月、日本万国博覧会開催。日航機よど号ハイジャック事件。
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1971
昭和46年
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52歳
『ことりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童図書展にてグラフィック賞を受賞。
この頃から十二指腸潰瘍をわずらう。 『あかちゃんのうた』『たけくらべ』(ともに童心社)『ゆきごんのおくりもの』(新日本出版社)を刊行。 |
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1972
昭和47年
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53歳
『ひさの星』(岩崎書店)『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)などを描く。
夏、代々木病院に入院。 |
9月、日中国交正常化。
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1973
昭和48年
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54歳
3月、静養のためハワイ旅行。帰国後、『ぽちのきたうみ』(至光社)、 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店。翌年ちひろの没後、ライプチヒ国際書籍展銅賞受賞)を描く。
雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙絵をまとめた『こどものしあわせ画集』(岩崎書店)出版。 秋、ガンのため代々木病院に入院。小康を得て退院。 |
1月、ベトナム和平協定調印。
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1974
昭和49年
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55歳
3月、病状が悪化し、再入院。
6月、あかちゃんの絵を描き絶筆となる。 8月8日、肝臓ガンのため死去。 |
没後〜現在
ちひろの歩み | 社会の主な出来事 | |
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1975
昭和50年
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未完のまま遺作となった『赤い蝋燭と人魚』(童心社)を刊行。
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4月、ベトナム戦争終結。
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