田畑精一の絵本
安曇野ちひろ美術館では、現在
没後1年 田畑精一『おしいれのぼうけん』展
を開催中です。 [2021年9月11日(土)~11月30日(火) ]
展覧会にあわせて、「田畑精一が手がけた絵本」をご紹介します。
※印のついている絵本の原画が、上記展覧会に出展中です。
『おしいれのぼうけん』※
古田足日/田畑精一・さく
出版社:童心社
出版年:1974年
さくら保育園にはこわいものがふたつあります。ひとつは押入れで、もうひとつはねずみばあさんです。お昼寝前にミニカーの取りあいでケンカになったさとしとあきらは、先生に押入れに入れられてしまいます。悪の象徴ともいえる恐ろしいねずみばあさんに、手をつないで励ましあい、勇敢に立ち向かっていくふたりの活躍が魅力的な冒険譚です。
文を担当した古田は「絵本は、作家と画家と編集者が三位一体となって創りあげていく必要がある」と語り、子どもたちの生活を実感するために画家の田畑と保育園の子どもたちをじっくり取材し、編集者を交えて何度も話しあいを重ねて、この物語を作りあげました。画家の田畑は園児が実際に使っていたような画用紙と鉛筆を主に、80ページに及ぶ躍動感あふれる子どもの姿を、実に丹念に描いています。3年をかけて完成したこの絵本を作家今江祥智は次のように評しました。「児童文学の世界というのは急には良くならないが、作家や画家が努力して、らせん階段を登るように少しずつ少しずつ良い作品がうまれていく」
1974年の発売以来、子どもたちの絶大な支持を得ている本作は、240万部を超えてなお読み継がれているベストセラー作品です。
『キミちゃんとかっぱのはなし』
神沢利子・作 田畑精一・絵
出版社:ポプラ社
出版年:1977年
横浜の港に、大型船から貨物を運ぶための平底の船、はしけが停泊しています。
そこには、キミちゃんとお母さん、そして港で働くお父さんが暮らしています。キミちゃんがはしけのうえでひとり遊んでいると、川から頭を出したのは、かっぱでした。
かっぱは、人間が川に落としたものを集めてくらしています。かっぱは、熱心にキミちゃんにこういいます。「だいぶコーヒーがたまったから、コーヒー屋をだそうか。キミちゃんきてくれるか。」キミちゃんは、エスカレーターのあるコーヒー屋なら行ってもいいと答えます。エスカレーターのことを知らないかっぱに、キミちゃんはデパートにあると教えます。キミちゃんがお父さんにデパートへ連れていってもらった日、エスカレーターですれ違ったのは、どうやらかっぱのようでした。
この物語には、キミちゃんとかっぱの交流に重ねて、港で暮らす家族の情愛が細やかに描かれています。かつて、横浜港付近の大岡川やその分流の中村川には、はしけがひしめくように停泊し、そこに居住している人々がいました。1960年代以降、港が整備されると、その数は減少していきました。繰り返し描かれている夕暮れどきの港の場面には哀感が漂い、たくましく生きる人々への共感があらわれています。
『ゆうちゃんのゆうは?』※
神沢利子/田畑精一・さく
出版社:童心社
出版年:1981年
もうじき1歳になる弟の名前は、ゆうちゃん。ゆうちゃんの「ゆう」は、何の「ゆう」でしょうか?郵便の「ゆう」?遊園地の「ゆう」?幽霊の「ゆう」…?たくさんの「ゆう」に困った女の子が尋ねると、お父さんの答えは「ゆうゆうの ゆうだよ」。
ゆうゆうの「ゆう」とは、雲みたいでもあり、広い海や大きな山のようでもある、という神沢の文章を受けて、田畑は「ゆうゆうとした山」や「ゆうゆうとした雲」とはどのようなものか、実際に浅間山や乗鞍、妙高など信州の山に登り、時間をかけてイメージを膨らませていきました。
画風や画材を吟味し、透明水彩の習熟にもこだわって、4年の歳月をかけて仕上げた本作。没後1年 田畑精一『おしいれのぼうけん』展に展示中の習作や取材スケッチからは、キャラクターのイメージをつかむまでの工夫や、ペン画や透明水彩などさまざまな技法を試みた絵本のクライマックスとなる自然の描写への取り組みなど、絵本づくりにかける田畑の真摯な思いが感じられます。
『さっちゃんのまほうのて』
田畑精一/先天性四肢障害児父母の会 野辺明子、志沢小夜子・共同制作
出版社:偕成社
出版年:1985年
幼稚園に通うさっちゃんは今日、ままごと遊びでお母さん役になりたかったのです。さっちゃんのお母さんのおなかには、もうじき生まれてくるあかちゃんがいます。自分もお母さんになると心に決めて、名乗りをあげたさっちゃんに、いつもお母さん役の女の子が言い放ちます。「さっちゃんは おかあさんには なれないよ! だって、てのないおかあさんなんて へんだもん。」さっちゃんの右手には、生まれつき5本の指がありません。けんかの末に幼稚園を飛び出して家に戻ったさっちゃんは、どうしてみんなの手とちがうの?みんなみたいに指がないの?とお母さんに迫ります。
この絵本は、「先天性四肢障害児父母の会」の野辺明子と志沢小夜子と、田畑精一との共同制作によるものです。さっちゃんと同じように指のない娘を持つ野辺は、「ゆび、いつはえてくるの?」と娘に問われたことがありました。自身が左手指のない志沢は2歳の娘から突然「お母さんの手お化けみたい」と言われ衝撃を受けます。子どもたちにきちんと障害のことを伝えたい、その強い思いから絵本の企画が生まれます。
田畑は当初、かわいそうな子どもという先入観から、絵本を引き受けることを迷ったといいます。大勢の“さっちゃん”と友だちになれば描けるかもしれないと考えた田畑は、父母の会のスキーキャンプに参加し、障害を隠すことなく明るくのびのびと遊ぶ子どもたちや親たちの姿に驚かされます。田畑は5年の交流を経て、絵本を「父母の会のような絵で満たしたい」と、ペン画によるのびやかな輪郭線と水彩の明るい色彩で、いきいきと遊ぶ子どもたちの姿や親子の情愛あふれる場面を描いています。一方、さっちゃんが不安にかられる場面は、色彩のないモノクロームで描くなど、心情に寄り添う田畑の姿勢がうかがえます。
『ピカピカ』
田畑精一・さく
出版社:偕成社
出版年:1998年
道端に捨てられてしまった自転車ピカピカは、まだ自分は走れるのに、と悲しくてなりません。誰も助けくれないと思っていたところに、ねこのタマに案内されたゆきちゃんがやってきて、自転車修理の名人のげんじいちゃんのところまで、おしていってくれました。そこで、なおしてもらったピカピカは、げんじいちゃんに聞かれます。「なあ、ピカピカ、アフリカにいかないか?」ピカピカは、自分が知らない国で、人々の手伝いができると知り、出発します。コンテナに入り、船に乗り、ようやく着いた地で、モシャおばさんという助産婦さんが新たな持ち主に。彼女のかけつけるところにはピカピカも一緒。そしてある日……。
田畑が実際に知った活動を題材に、はじめて文章も絵も手がけた絵本です。アフリカのタンザニアまで取材に行ったことがうかがえる村の風景や、いきいきとした人々の姿が、鉛筆のみのモノクロの絵と、クレヨンから水彩まで用いた色鮮やかな絵の両方で表現されています。「貧しい国の方が、どうも人間が豊かだというのはどうしてでしょうかね。……『ピカピカ』は、物のありあまる僕たちの文明とアフリカが対比される絵本になりました。」と田畑は語っています。
『さくら』※
田畑精一・作
出版社:童心社
出版年:2013年
桜と聞いてみなさんはなにを思い浮かべますか?
主人公の「ぼく」にとっての桜は、時代ごとに意味を変えていきました。「ぼく」は、日中戦争が始まった1931年の桜が咲く季節に生まれます。小学校の帽子の徽章(きしょう)や教科書、軍歌など、いたるところに桜は登場し、「ぼく」も桜の花のように美しく散れ、散れ…と教えられて軍国少年として育ちます。やがて町や工場とともに桜の花は燃え、過労続きの父は戦争の終わる年に亡くなります。戦後、「ぼく」は貧しくも懸命に生きるなかで、父以外にも戦争で大勢の人が亡くなったことに気がつきます。
「ぼく」が生まれる冒頭のシーンは、柔らかなタッチと淡い色彩ですが、戦争が進むにつれ、硬い線と暗い色調で描かれるようになります。また、知人の出征を見送るシーンでは、子どもたちが無邪気にはしゃぎ旗を振る一方で、知人とその家族の表情は硬く、その後の展開を暗示するように、空は灰色に染まっています。
本作は、日本・中国・韓国の平和を願う絵本作家たちが国を越えて交流を重ね、歴史と向き合い、平和と戦争について語り合ってつくられた「日・中・韓 平和絵本」シリーズの一冊です。表紙に描かれた子どもの名札には「たばたせいいち」とあり、「ぼく」に作者の姿が重ねられていることが分かります。
ラストシーンで桜の木が語りかける「戦争は いかん!戦争だけは ぜったいに いかん!」ということばと、桜の花びらが散るなか、健やかに眠るあかちゃんの姿には、田畑の平和への強い思いが感じられます。
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