田畑精一 『おしいれのぼうけん』(童心社)より 1974年

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没後1年 田畑精一『おしいれのぼうけん』展

『おしいれのぼうけん』(1974年)は234万部を超すミリオンセラーとして、今も絶大な人気を誇ります。子どもの心に届く絵本をつくりたいという田畑の原点には、自らの戦争体験がありました。

軍国少年として 自伝的絵本『さくら』
「日・中・韓 平和絵本」シリーズの1 冊として制作された『さくら』は、田畑の自伝的絵本です。日中戦争が始まる1931年に生まれた「ぼく」は、教科書も新聞も聖戦一色に染まっていくなか、軍国少年として育ちました。終戦の年に空襲で家の工場を焼かれ、過労で父が病死します。敗戦後、母を支え貧しさに苦しむなかで、戦争の意味を疑うようになります。絵本の下絵のダミーには、戦後、聖戦から一転して平和や民主主義を語り始めた大人たちへの不信感が赤裸々に記されています。

『さくら』(童心社)より 2013年

人形劇から子どもの本の仕事へ
1950年の高校卒業の春に人形劇団プークの公演を観た田畑は、舞台でいきいきと演じられる人形劇に心を奪われます。京都大学に入学しますが、朝鮮戦争で学内が反戦運動で騒然とするなか、学ぼうとしている原子物理学が人の幸福に役立つのか疑問を抱きます。原子爆弾をつくり戦争を続ける大人に平和は期待できない。未来を生きる子どもに希望を託し、「子どもたちを人形劇で感動させたい。そして生きることの楽しさ、すばらしさを伝えよう。そうしたらきっと戦争なんか大嫌いな子どもたちが育つだろう」と大学を中退して人形劇の道に入ります。所属した人形座では人形の頭などを制作し、木彫の研鑽が後に子どもの躯体の描写にも生かされています。63年の人形座解散後、交流のあった作家の古田足日の誘いで、66年に『くいしんぼうのロボット』で初めて子どもの本の仕事を手がけます。以降、古田とは紙芝居や読み物などでコンビを組み、『おしいれのぼうけん』では、作家と画家と編集者が三位一体となった、新たな絵本づくりに挑戦していくことになります。※1

共作絵本の広がり
『おしいれのぼうけん』で取り組んだ作家との共作の姿勢は、神沢利子の『ゆうちゃんのゆうは?』にも引き継がれます。弟の名前の「ゆう」は、「ゆうゆう」のゆう。広い海のようでも、大きな山のようでもあるという、神沢の詩のようなことばを受けて、田畑は信州の山々を登りスケッチを重ねています。絵本にあわせて画風や画材を吟味した田畑は、透明水彩の習熟にもこだわり4 年の歳月をかけて絵本を仕上げました。本展では『おしいれのぼうけん』『ダンプえんちょうやっつけた』『ゆうちゃのゆうは?』『さくら』などの絵本原画や習作、人形座時代の人形なども展示し、子どものために作品をつくり続けた田畑の思いを浮き彫りにします。

『ゆうちゃんのゆうは?』(童心社)より 1981年

※1 東京館で2021年3月16日(火)~6月13日(日)開催した展覧会
「没後1年 田畑精一『おしいれのぼうけん』展」のご紹介も、ぜひご覧ください。