石内都 1974.chihiro #1 2019年 ©Ishiuchi Miyako

石内都 1974.chihiro #1 2019年 ©Ishiuchi Miyako

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石内都展 都とちひろ ふたりの女の物語

2018年のいわさきちひろ生誕100年プロジェクト「Life展」では、ちひろが描いた『わたしがちいさかったときに』と、写真家・石内都が広島で被爆した人たちの遺品を撮影したシリーズ<ひろしま>によるコラボレートが、安曇野ちひろ美術館で行われました。当初、石内はちひろについて「やさしい色彩でかわいらしい絵を描く絵本作家」という印象しか持たなかったといいますが、ちひろの生き方を知るにつれて、2歳年上の自分の母親・藤倉都との重なりを発見していきました。
本展では、今年石内が新たにいわさきちひろの遺品を撮り下ろした新シリーズ<1974.chihiro> 29点を初公開するとともに、自身の母親の身体や遺品を撮影したシリーズ<Mother’s>(2000年~2005年)27点も展示します。藤倉都といわさきちひろの生前の写真や資料も展示し、石内の視点を通して、同じ時代の空気を吸って生きたふたりの女の物語が語られます。

彼女の残した資料やエッセイを読んでみると、ちひろさんの生き方は、私が抱いていた彼女の絵に対するイメージとは違っていました。今ほど女性が自由ではなかった時代に、手に職を持って真剣に生きたひとりの女。それは“かわいい”というよりも“かっこいい”と呼ぶにふさわしく、そんな彼女の生き様に対して、私の内側が共鳴するのを感じました。また偶然にも、ちひろさんと私の母は2歳しか年が違わないということも発見でした。大正生まれの母は、家族の反対を押し切って18歳で車の免許を取り、女だてらに運転手になった、やはり働く女性です。後に7つ年下の父と結婚し、私が生まれたわけですが、ちひろさんも善明さんより7つ半年上で。それらの重なりにも親近感を覚えました。「そうか、ちひろさんと母は同じ時代の空気を吸って生きたんだ」そう思ってから、私のなかの彼女の存在がよりいきいきとしました。

石内 都 2017年
『いわさきちひろ生誕100年 Life Chihiro Iwasaki 100』より抜粋

<Mother’s>

石内は、写真を始めた28歳のときから、母・藤倉都の旧姓名である「石内都」を作家名として名乗ってきました。2000年に母を亡くした石内は、遺されたもののなかから、シミーズやガードルなどの肌身に近い品々を撮り始めます。それは生前うまくいかなかった母との関係を結び直していく作業でもありました。これらの遺品の写真に、亡くなる直前の母の身体を撮影した写真を加えたシリーズ<Mother’s>は、2005年にヴェネツィア・ビエンナーレで展示され、世界的な注目を集めました。
以来、遺品の撮影は<ひろしま>(2007年~)、<Frida>(2012年)へとつながりました。石内の写真は、既存の「母」「被爆地・広島」「メキシコの女流画家フリーダ・カーロ」のイメージを解放し、新しい見方を見るものに示してきました。

Mother’s #3

石内都 Mother’s #3 2000年 東京都写真美術館蔵 ©Ishiuchi Miyako

Mother’s #5 

石内都 Mother’s #5 2001年 群馬県立近代美術館寄託作品 ©Ishiuchi Miyako

 

藤倉 都

藤倉 都

(1916~2000)*写真家・石内都の母

1916年、群馬県阿左美(現・みどり市)の農家の5女として生まれる(旧姓名・石内都)。1934年、18歳で自動車免許を取得。タクシー、バス、トラック、ジープなどあらゆる車を運転する。1947年に藤倉清と結婚、同年に長女を、1949年に長男を出産。1975年、写真を始めた長女が、旧姓名の「石内都」を作家名として名乗る。2000年、肝臓ガンのため死去。享年84。


 
いわさきちひろ

いわさき ちひろ

(1918~1974)

1918年、福井県武生(現・越前市)に生まれ、東京で育つ(旧姓名・岩崎知弘)。3人姉妹の長女。1936年東京府立第六高等女学校卒業。絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1950年に松本善明と結婚、同年、紙芝居「お母さんの話」を出版、文部大臣賞受賞。翌年、長男を出産。絵本などの子どもの本を中心に、新聞、雑誌、カレンダーなどさまざまな印刷メディアに絵を描いた。1974年、肝臓ガンのため死去。享年55。

<1974.chihiro>

安曇野での展覧会を機にちひろに向き合った石内は、戦時中に旧満州(中国東北部)に渡った経験や、手に職を持って働きながら、年下の夫を支えたその人生が、母の人生と重なることに気づきます。東京館で再びちひろとコラボレートするにあたり、<Mother’s>とともに、ちひろの遺品の写真を展示することが、石内自身から提案されました。
2019年1月、石内は雪の降る安曇野で、ちひろが身につけた服や小物などを撮影しました。冬期休館中の安曇野ちひろ美術館の館内で、よい具合に自然光のさす場所を見つけるとすぐに、石内はカメラを手に、冬の陽の光を追いかけながら、身軽に撮影を始めました。若いころに手づくりしたワンピース、銀座の洋装店ルネで仕立てたオーダーメードのスーツ、新宿の伊勢丹や小田急百貨店で買ったくつや帽子、これまで人前に出したことのない毛玉のセーター、入院中のネグリジェ、ストッキング、壊れたアクセサリーまで、用意したほぼすべての品々が撮影されました。新作〈1974. chihiro〉のシリーズには、ちひろが生きた時の断片を伝えるものたちが映し出されています。

1974.chihiro #2

石内都 1974.chihiro #2 2019年 ©Ishiuchi Miyako

1974.chihiro #9 

石内都 1974.chihiro #9 2019年 ©Ishiuchi Miyako

1974.chihiro #18

石内都 1974.chihiro #18 2019年 ©Ishiuchi Miyako

いわさきちひろの素描

約9550点のいわさきちひろの遺作より、画家として歩み始めた27歳当時から、晩年までの人物の素描を、年代を追って展示します。子どもを描いた水彩画で知られるちひろですが、その絵の礎には、日々のデッサンの修練がありました。折々の素描からは、忙しい日常のなかでも、常に周りの人々を観察し、表現者であろうと手を動かしていたちひろの姿がうかがえます。

いわさきちひろ 自画像(30歳頃)

いわさきちひろ 自画像(30歳頃) 1940年代後半

都とちひろ ふたりの女の物語

母・藤倉都をひとりの女として見つめた〈Mother’ s〉。絵本画家として知られるちひろを、ひとりの女として見つめた〈1974. chihiro〉。ふたつのシリーズを同時に見ることで、ふたりの女の個性や、撮影した石内都との距離感が際立ちます。
両シリーズを展示するにあたり、石内は、母・藤倉都の過去の記録をたどり、ふたりが生きた時代背景も調べていきました。そして、結婚も仕事も女が自分で選ぶことが困難だった時代に、親の反対を押し切って車の免許を取得し、バスやタクシー、トラックなどあらゆる車を運転してきた、強い意志を持つ女性だったことを改めて認識していきました。それは母が亡くなってから20年近く抱えてきた母をめぐる課題と向き合い、「<Mother’s>に対する答えを実感する作業でもあった」と、石内は語っています。
「都とちひろ」。生前は接点がなかったふたりの女が、石内都によって発見され、その目を通して語られます。彼女たちの人生は、日本の戦前・戦中・戦後の時代にリアリティを与え、母、女、仕事といった、今につながるさまざまな問いを語りかけてきます。

 

石内 都(写真家)

1947年、群馬県桐生に生まれ、横須賀で育つ。1979年 <Apartment> で第4回木村伊兵衛写真賞受賞。2005年、母の遺品を撮影した <Mother’s> でヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。2008年に写真集『ひろしま』を発表、被爆者の遺品の撮影は現在も続く。2013年に紫綬褒章、2014年にハッセルブラッド国際写真賞を受賞。2017年に横浜美術館で大規模な個展「肌理と写真」を開催。2018年には安曇野ちひろ美術館で、「いわさきちひろ生誕100年『Life展』ひろしま 石内都」を開催した。