いわさきちひろ アトリエの自画像 『わたしのえほん』より 1968年

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くらし、えがく。ちひろのアトリエ

いわさきちひろが22年間を過ごした練馬の自宅の跡地に建つちひろ美術館・東京には、今から50年前の、1972年当時のアトリエのようすが復元されています。画机や本棚などの愛用の品々が遺されたアトリエからは、時を経た今も、ちひろの人物像を偲ぶことができます。
本展では、家庭も仕事も大切にしたちひろの生き方を、折々の作品やちひろのことば、写真や資料などを通して紹介します

画家としての出発点――神田の下宿

図1 屋根裏のアトリエで本を読む自画像 1947年頃

ちひろは第二次世界大戦敗戦の翌年、27歳のときに、自立して生きようと疎開先の信州から単身東京に戻り、神田の叔母の家の屋根裏部屋に間借りして(図1)、働きながら絵の勉強を始めました。次第に新聞や雑誌などに仕事を広げるなか、1948年には近所のブリキ屋の2階の六畳一間に移ります。1950年1月、7歳半年下の松本善明と、ふたりだけの結婚式をあげたのもこの部屋でした。戦前の家制度の考え方が根強く残り、女性が社会のなかで働くことが困難だったこの時代、ちひろは結婚に際して、夫との間に「芸術家としての妻の立場を尊重すること」の一筆を入れた誓約書を交わしています。

家族との日々――練馬のアトリエ

翌年、ちひろは息子を生み、母となりました。しかし、狭い下宿での育児と仕事の両立は厳しく、信州・松川村の両親のもとに息子を預けざるをえなくなりました。息子と離れて暮らしたおよそ半年間、ちひろは懸命に働き、時間ができると遠い実家まで息子に会いに出かけたといいます。

図2 アトリエの自画像 『わたしのえほん』(新日本出版社)より 1968年

練馬区下石神井に家族3人が住める小さな家を建てたのは1952年の春のことでした。以後ちひろは、この家で、くらしと仕事の両方を大切にしながら、人生を切り拓いていきました。
当初は居間の一角を仕事場にして、子育てをしながら絵を描いていましたが、1963年、夫の両親との同居をきっかけに2階を増築、自分のアトリエをもつようになりました。この部屋で、ちひろはさらに仕事を充実させ、1960年代後半からは絵本制作へと力を注いでいきました。

自然のなかのアトリエ――黒姫山荘

1966年には、信州北端の黒姫の地に、建築家の奥村まことに設計を依頼して、もうひとつのアトリエとなる山荘を建てました。春から秋は「野花(やか)亭」、冬は「雪雫(せっか)亭」と呼んだこの山荘は、都会の喧騒から一時離れ、創作に専念できる大切な場所でした。豊かな自然からインスピレーションを得ることのできた黒姫山荘では、娘時代から愛読していた宮沢賢治の童話に絵を描いた『花の童話集』などの作品が生まれました。

図3 ストーブに薪をくべる少女 1973年

ちひろの1972年

ちひろの画業のなかでも、1972年はとりわけ充実した1年でした。月刊誌「子どものしあわせ」や「こどものせかい」の表紙絵にも、それまでのさまざまな試みの集大成ともいえるほど、幅広い表現を見ることができます。絵本では、3月に『ひさの星』、10月に『母さんはおるす』、11月に『あかまんまとうげ』、そして12月には『ゆきのひのたんじょうび』を出版しました。

図4 赤い毛糸帽の女の子『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)より 1972年

1970年代に入ってますますベトナム戦争が激しさを増すなかで、解放軍の女性兵士グェン・ティ・ウットと5人の子どもたちをモデルにベトナム人作家が書いた短編小説の絵本『母さんはおるす』は、ちひろが「積極的に喜んで描いたもの」だといいます。この絵本の制作にあたっていた同年5月には、「ぐるーぷ車」の展覧会にベトナムの子どもの姿を描いた「子ども」(図5)と題した3点の絵も出品しています。その絵を岩崎書店の編集者が見たことがきっかけとなり『戦火のなかの子どもたち』の制作が始まりました。当時のインタビューから、ちひろの思いを知ることができます。「平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」*1 「ベトナムの本を続けてやるのも、私はあせって、いましなければベトナムの人は、あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないかと思って……。(中略)くたくたでたいへんなんだけれども、私のできる唯一のやり方だから、とてもあせって、いまはそんな切実さがすごくあるんです。」*2

図5 戦火のなかの少女『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1972年

数多くの仕事を手がける一方で、息子の大学受験、半身不随の母の介護、衆議院議員の夫の選挙など、大家族を支える主婦としても多忙を極めた年でした。胃の具合を悪くしながらも、「大事な人間関係を切っていくなかでは、特に子どもの絵は描けない」*2と語っています。
エッセイ「大人になること」*3に、ちひろは次のように書いています。「自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけどこの世の生き甲斐なのです。(中略)大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。」ちひろが55年の生涯を閉じたのは、2年後の1974年のことでした。その3年後にちひろ美術館が開館、今もちひろの仕事や思いを受け継いで活動しています。

*1 「わたしの生きがい」インタビュー記事より(掲載紙不明)
*2 「教育評論」1972年11月号(日本教職員組合)
*3 「ひろば」1972年 4 月(至光社)