日本と関わりの深いベトナム戦争
アメリカの太平洋軍司令官が「沖縄なくして、ベトナム戦争を続けることはできない」と語ったように、日本はアメリカ軍にとって、重要な後方基地でした。アメリカ施政下にあった沖縄の嘉手納基地からはB52戦略爆撃機が飛び立ち、ベトナムに爆弾の雨を降らせました。また、爆弾や毒ガス、軍服、死体袋、車両、電気製品など、アメリカ軍にとって必要な物資をつくり、日本の産業界は、「ベトナム特需」で潤いました。
一方で、ベトナム戦争の激化にともない、国内での反戦運動も大きく広がります。反対集会やデモ、ベトナム人民支援の募金など、さまざまな活動が行われました。
ちひろとベトナム戦争
1967年、反戦運動が広がるなか、ちひろは被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』を描きました。ちひろにとって、初めて戦争をテーマにしたこの絵本には、戦争を知らない若い世代に、戦争の悲惨さを知ってほしいという思いがこめられています。
1970年、ベトナムの子どもを支援する会(※1)が呼びかけた反戦野外展(※2)には、「ベトナムのこども 私たちの日本のこども 世界中のこどもみんなに平和と しあわせを」という言葉を添えた作品を出展します。
ちひろがベトナム戦争をテーマに描いた絵本は2冊あります。1冊目の絵本『母さんはおるす』は、ベトナム戦争中、もっとも激しく「北爆」が行われた1972年に発表されました。同じ年、ちひろはグループ展に、「子ども」と題した3枚の絵を出展します。多くの出展作家が、新作ではなく、絵本や挿絵の原画を並べるなか、ちひろの作品はそれまでのものとは、雰囲気の異なる新作でした。「私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった、美しい子どもに、見えてしまう」と語り、常にいのちの輝きを感じさせる子どもを描いたちひろが、虚無の表情を浮かべる子どもを描いたのです。3人の「子ども」には、戦争への怒りや悲しみがあふれています。
「子ども」をきっかけに、翌1973年、2作目の『戦火のなかの子どもたち』が誕生します。入院で制作が中断されることがあっても、「私のできる唯一のやり方だから」と、はやる気持ちで取り組み続けた末の完成でした。
『戦火のなかの子どもたち』を書き上げて1年後の1974年、ちひろは他界します。ベトナムに平和が訪れたのは、ちひろの死の8ヵ月後、1975年4月のことでした。
※1 ベトナムの子どもを支援する会
1967年、日本児童文学者協会などが主催した「ベトナムの子どもを支援する集い」をきっかけに発足した。子どもの文化にかかわる人々が参加し、それぞれの立場からベトナム反戦運動を展開した。
※2 反戦野外展
若手絵本画家のオピニオンリーダーだった田島征三を中心に、西村繁男、長谷川知子、いまきみちなど後に絵本やイラストレーションの世界で活躍する若手作家が数寄屋橋の西銀座デパート前で開くようになったポスター展。 1967年11月に第一回が開催され、70年代に入ると毎月1回行われるようになった。手塚治虫、長新太、和田誠など、執筆を依頼された著名な絵本画家やイラストレーターも出展した。1980年頃まで実施された。
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