清水良雄 なはとび 「赤い鳥」1932年6月号(赤い鳥社)より 1932年
第一次世界大戦を経て、後に大正デモクラシーと呼ばれた文化潮流が起こった1910年代。西欧から当時の先進的な技術や知識とともに、新しい芸術思潮や近代的な教育思想が一気にもたらされ、子どもについても、個性を尊重する考え方が広まりました。
1914年に羽仁もと子・吉一夫妻によって創刊された生活教育絵雑誌「子供之友」につづいて、1918年に鈴木三重吉が童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」を創刊すると、それに刺激を受けて「おとぎの世界」、「金の船( = 金の星)」、「童話」といった雑誌が次々と創刊されます。さらに、1922年に鷹見久太郎により絵雑誌「コドモノクニ」が刊行されると子どものためのイラストレーションはそれまでにない華やかな時代を迎えます。絵を重視した編集の「コドモノクニ」は、大判のフルカラー、定価50銭と当時としては豪華なつくりで、その革新性は後続の絵雑誌に影響を与えました。
日本童画家協会結成
絵雑誌の黄金時代を支えた童画家たちは、童話作家協会による『日本童話選集』※1の仕事をきっかけに初めて一堂に会しました。横のつながりを得た彼らは、1927年、岡本帰一、川上四郎、清水良雄、武井武雄、初山滋、深沢省三、村山知義の7 名で日本童画家協会を結成し、「童心へのよき栄養となる」絵画である童画の質を高めるべく、展覧会の開催や作品集の刊行を行ないました。
童画の国のパイオニアたち
清水良雄(1891―1954)は、鈴木三重吉の信頼も篤く、「赤い鳥」の中心となって表紙や挿絵を描きました。卓越したデッサン力とデザインセンスで子どもを描き、「赤い鳥」のモダンなイメージをつくり上げます。
深沢省三(1899―1992)は、東京美術学校の先輩である清水の推薦で、「赤い鳥」に描き始めます。西欧のしゃれた雰囲気と軽やかさをあわせ持つ深沢が加わり、「赤い鳥」の誌面はより一層、彩りを増しました。
岡本帰一(1888―1930)は、西欧の空気を感じるモダンな絵や、ノスタルジックで情趣ある童謡の挿し絵など、幅広く子どもの姿を描きました。「金の星(=「金の船」)」、「コドモノクニ」で活躍しますが、惜しくも42歳で亡くなっています。
武井武雄(1894―1983)は、帰一亡き後の同誌を支え、デフォルメされた独特の絵柄と、空想に富んだ世界観で子どもたちを魅了しました。また、「童画」という言葉も、1925年の個展「武井武雄童画展」で、武井が初めて用いたものです。武井は、童話、童謡の付属物と考えられていた絵を「絵画として独立性があるべきもの※2」として、大人が子どものために描く絵画、すなわち「童画」と名づけました。多岐に渡る創作活動を行い、童画界、そして日本童画家協会においても、中心的な役割を果たしています。
川上四郎(1889―1983)は「コドモ」、「良友」、「童話」をはじめとする絵雑誌に描き、戦後も童画界の長老として長く活躍しています。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれました。
前衛美術、舞台、小説など様々なジャンルで活躍した村山知義(1901―1977)は、母が勤務していた縁で婦人之友社の「子供之友」に童画を描きます。洗練された線描と理知的な構成による斬新な童画は、同誌や「コドモノクニ」で存在感を放ちました。
初山滋(1897―1973)は、絵雑誌「おとぎの世界」の仕事を機に童画を描き始め、戦後も子どもの本の世界で活躍します。浮世絵やアール・ヌーヴォーの影響が見られる繊細な線描と透明感のある鮮やかな色彩から生み出される童画は今なお人々の心をつかみます。
本展では、日本童画家協会主催の展覧会出品作や同会の面々が手がけた『コドモエホンブンコ』の仕事も紹介します。未だ子どものためのイラストレーションという分野が確立しておらず、いわゆる、本画とはいく段も低く見られていた時代、7 人の個性的な画家たちは、「童画」という子どものための美術の世界を切り拓き、ちひろをはじめ後世の多くの画家や子どもの本に大きな影響を与えました。
※1 1926年~31年に、丸善より刊行された童話作家協会の年刊作品集
※2 武井武雄「『コドモノクニ』の頃」、「月刊絵本」2巻1号、1974年1月
※収蔵品の記載がない作品は、全てちひろ美術館蔵
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