おうちで絵本のじかん『戦火のなかの子どもたち』

定例イベントの「絵本のじかん」(現在休止中)を、ご自宅で楽しんでいただける「おうちで絵本のじかん」をお届けします。

今回ご紹介するのは、絵本『戦火のなかの子どもたち』です。
ベトナム戦争が激化していた1972年から1973年にかけて、いわさきちひろは本作を制作しました。

絵本『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)

自らも戦争を体験したちひろは、爆撃の下の子どもたちに思いを重ね、「いましなければベトナムの人は、あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないか」と、はやる気持ちで筆をとりました。かねてからの体調不良のために入院し、制作が中断されることがあっても「私のできる唯一のやり方だから」と、取り組み続けました。

絵本の完成から1年後の1974年8月8日、ちひろはベトナム戦争の終結を知ることなく他界します。『戦火のなかの子どもたち』は、ちひろが最後に完成させた絵本となりました。

ベトナムのこども
わたしたちの日本のこども
世界中のこども みんなに 平和としあわせを

と願った、いわさきちひろの思いがこめられた作品といえます。

◆ちひろ美術館 公式サイト
絵本『戦火のなかの子どもたち』

(K.R.)

以下、絵本についてのエピソードを画像とともにご紹介します。

いわさきちひろ 戦火のなかの少女『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1972年

表紙となったこの少女の虚ろな目の表現は、他の作品の瞳の描き方とまったく異なっています。白目の部分が描かれ、その目の表情から空虚な少女の心の内を感じさせます。

いわさきちひろ 爆撃機『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1973年

この作品は構想の段階から描かれ、最終的に扉絵に使われました。
絵本の表紙を開くと、爆音が響き渡り、こののちに起こることを読者に想起させます。
爆撃の下にいる少女への思いと、かつて空爆にさらされた、ちひろ自身の姿が重ね合わされています。

いわさきちひろ 焔のなかの母と子『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1973年

「母さんといっしょに/もえていった/ちいさなぼうや」

この作品は、『戦火のなかの子どもたち』連作のなかで、ちひろが最後に描き、絵本に加えられました。唯一、大人が描かれている点で、それまでに描かれた作品との決定的な違いがあります。
母親の、強い視線と子どもを抱く手。
ちひろが、絵本『戦火のなかの子どもたち』のなかで、この作品をどうしても欠かすことができないと考えた理由が浮かびあがってくるようです。担当編集者は、「この母親像がどうしてもちひろさんに見えてしょうがない」と語っています。

いわさきちひろ シクラメンの花のなかの子どもたち『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1973年

1973年1月、ちひろは絵本の冒頭に入るシクラメンの絵を描き、詩をつくりました。
この詩は、絵本『戦火のなかの子どもたち』を貫く、ちひろの思いといえるかもしれません。

赤いシクラメンの花は
きょねんもおととしも そのまえのとしも
冬のわたしのしごとばの紅一点
ひとつひとつ
いつとはなしにひらいては
しごとちゅうのわたしとひとみをかわす。
きょねんもおととしも そのまえのとしも
ベトナムの子どもの頭のうえに
ばくだんはかぎりなくふった。
赤いシクラメンの
そのすきとおった花びらのなかから
しんでいったその子たちの
ひとみがささやく。
あたしたちの一生は
ずーっと せんそうのなかだけだった。

『戦火のなかの子どもたち』本文より 文・いわさき ちひろ

いわさきちひろ たたずむ少年『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1972年

この闇は少年の心のうちのようにも見えます。この作品には何度も線を引いては消した痕跡があり、特に少年の右足のすねのあたりは、画用紙の表面が削られています。悲しみや苦しみを表現するため、ちひろはひたすら、描いては消すことを繰り返していたのかもしれません。