朱葉会第18回展覧会入選者を祝う茶話会にて(前列左端)。1936年(17歳) 2列目左より有島生馬、藤田嗣治、小寺建吉

府立第六の女学生ちひろとの出会い

―ちひろさんとお知り合いになったのはいつごろのことですか。

私が女学校1年のときです。母が「親戚に偉いおじさまがいらっしゃるのに習わないなんて つまらないじゃない」と言ってね。恐る恐る(岡田三郎助のアトリエに)行ったわけです。

ちょうど恵比寿のちょっと小山になったところに岡田先生のアトリエがあったのね。私たち小さい子は3人だけ先生のところの応接間でレッスンしていただいていたんです。そこに当時、女学校4年生か5年生のちひろさんと、もう一人眼鏡をかけたお嬢さんがいらして、それが最初の出会いです。

―そのときのちひろさんの印象を教えてください。

私が初めてお会いしたときに、まず府立第六女学校の制服が目についたんですよ。白いブラウスにジャンパーのね。「あら、第六の人だわ」って思ったんです。それで最初ちひろさんは私のこと「誰が来たのかしら」って目で見るんですよね。こうやって顔をしばらくじーっと見るんですね。「は~この女学生はちょっと普通の人と違うんだな」ってわたしは小さいときですけれど、ちょっと感じましたね(笑)。それからよく見てたらすばらしいんですよね、デッサンが。先生のところに石膏がありますよね。私なんかはどう描いていいかわからないんですね、ドレミファソラシド的に教えてくださらないのですから。これは自分としてはちょっと違うところに来ちゃったと思ったんです。でもちひろさんはそこで充分堪えていらしたんです。それで何回か通っているうちにちひろさん私のことおわかりになっちゃったらしいの。それから非常ににこにこなさいましたよ。「たいしたことないな」と思ったんじゃないかしら(笑)。非常に競争心があるような感じもありました。

―府立第六の制服っていうのは当時どんな意味があったのでしょうか。

とにかく頭のいい人しか行かないんですよ、第六は。今は三田高校っていうんでしょうかね。頭のいい方が第六。本当に頭のよさそうなお嬢さんでしたよ。わたしも女学校の小さいときでしたけれど、この方はすごいな、きっと学校でも級長などをなさっているのじゃないかなと思いました。

洋画界の巨匠・岡田三郎助のアトリエ

―アトリエはどんなところでしたか。

フランス風の平屋で豪華じゃないんですけれど、門からずっと入っていくと薔薇のアーチがあってね。その薔薇のアーチをくぐってずーっと行くと女子研究所というのがあって。その手前に先生のアトリエがあったんですが、部屋は広いんです。20畳くらいありましたかしらね。一度先生のお部屋に入る機会があったんですけれど、下の床は全部ごちゃごちゃ、紙が置いてあったり本が置いてあったり筆があったり。道だけあるんです、歩く道だけが。先生が座るところと、そのころ石炭か薪のストーブがあって。でも上を見るとすばらしい絵が掛かっていましたね。フランスで描いた絵でしょうかね。白い少女が真っ白い素敵な洋服着ててね。大体ご自分でお描きになった外国の絵ですね。その部屋に入るとフランスに行っちゃった感じがしました。とってもいい感じです。ドアを開けて、ついている鐘が鳴っても全然おかしくない家でしたね。でも滅多に入れてもらえないですよ。怒られました、覗くとね。描いてらっしゃることもあるから。描きたくなっちゃうと昼も夜もないんです。雰囲気的にはとてもいい画室でした。のんびりとしててね。庭には薔薇の花が咲いていて。池にはアヒルがいたり、猫がそこら辺に寝てたり。

それからお手伝いさんで”おみつさん”という方がいて、いつもいいコーヒーを入れるんですよ。そこの玄関の横のところが食堂になっていて、玄関からずっと庭を通ってレッスン室に行くから、そのときにいいコーヒーの匂いがぷーんとしてきたりして。

―レッスンをした部屋はどんな雰囲気でしたか。

レッスンした部屋というのがまたすばらしいお部屋でフランスへ行ったようなお部屋でした。岡田先生の小さな絵でフランスの女の人が白い洋服を着て、傘を持って池のところですっと立って、白鳥が泳いでいるような絵がそれとなく掛かっているんです。だからそこへ行くと全然違う雰囲気で。環境が良かったんでしょうね。決して贅沢じゃないんですよ。だけど入っていくと芸術の香りっていうものを感じましたね。ですから楽しかったですね。心安らぐようなところでほっとするんですよね。絵を一生懸命に描かなきゃいけないっていう緊張感はなかったですね。

―岡田先生のアトリエにはどんな方がいらしていたんでしょうか。

やはり相当裕福な方が多かったみたいですね。それから本当にプロになる方。女子研究所には、三岸節子さんとか森田元子さんもいらっしゃったと思います。それから愛新覚羅(中国・清朝の皇帝の一族)さんのところに嫁がれた嵯峨浩子さまもいらっしゃいました。アマチュアの方でも油絵を描ける、という感じですね。岡田先生が、これはプロになるとかアマチュアになるとかおっしゃるかと思います。ですから有名な方で挿絵をなさるような方へは「挿絵をやれば一流になるよ」と言うようなことを伺ったこともありますけれどね。お嬢様でお上手で、でもプロにならなくても趣味としてなさる方も多かったですね。みなさん良いところの方が多かったような気がします。

先生がアトリエから女子研究所にお入りになるときに、フランスの鐘の音がするんですよ。教会の鐘みたいな。ドアのところについているので先生が入るとカンカンカンと鳴るんです。そうすると研究所のお姉さまたちはお庭で散歩してらっしゃることがおありになるのですけれど、飛んで自分のレッスン室に入っていくのが見えましたけれど。

レッスン室でのちひろ

―レッスン室ではどんな絵を描かれていたんでしょうか。

基本的には石膏。見本があってこれと同じものを描きなさい、と言ってね。ちひろさんは他のものもちょっと描いてらしたような気もするけれど、はっきりはわかりません。基本的には石膏を描いてそれを直してもらう。

―岡田先生のところで絵を描いているときのちひろさんはどんな様子でしたか。

厳しいです。自分が納得しなきゃ駄目だ、という感じですね。だから私がちひろさんに最初にお会いしたときにも、この人はどういう人かしらと顔をじろじろじろじろ見られちゃいましたからね。厳しい方じゃないですかね。でも私の絵はたいしたことないと思われちゃったんで、その後はにこにこしてらしたけど。すごく厳しいですよ。ちょっと違うのね。お習いになっているときの感じというのは、先生から何か掴もうかなっていう感じで。岡田先生はやさしい人なんですけれどね、厳しい目で見てましたね。

―岡田先生はどんなふうにご指導なさるのでしょうか。

褒めるも怒りもしません。黙ってるんです。黙ってるほうが良いらしいですね。悪いときは悪いんですもん。黙って見てるときのほうが可能性があります。褒めることはあまり聞いたことがありません。駄目な人には駄目とおっしゃるんじゃないですか。絵の世界も難しいですね。

ちひろとの70年ぶりの再開

―岡田先生のところにいた女学生が、”いわさきちひろ”だということはご存知でしたか。

もう全然。ちひろさんの昔の面影は府立第六女学校の制服を着て、少しの間ですけれどお話できたっていうことだけで。ところが、(2004年頃に)テレビでちひろさんの当時の写真を見て「あっ!」と思って、もうびっくり、驚いちゃいました。おんなじ顔で、同じ制服着ていましたから。ちょっと僭越だったけれど、いわさきちひろ美術館にご連絡したんです。

―岡田先生のところで勉強したことはちひろさんにとって大きかったと思われますか。

それはそう思います。絶対に。だって少女のころっていうのは感受性が強いでしょ。そのころにすばらしいものを見たりすばらしい音楽を聴けば、それがずっと続くと思います。だからあの方があそこで勉強なさったのは非常にいいものを身におつけになったんじゃないかと思いますよ。