百年もの年代の差をこえて、わたしの心に、かわらないうつくしさをなげかけてくれるアンデルセン
いわさきちひろ 1964年
創作童話の祖として知られるデンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン (1805 ~ 1875)。彼の童話は約 160 言語に翻訳され、時代も国境も超えて世界中の人々に読み継がれています。世界各国の画家たちがアンデルセンの童話を絵にしようと取り 組み、日本でも明治期に紹介されて以来、多くの画家たちが絵を描いてきました。
いわさきちひろは、日本でも有数のアンデルセンの描き手です。アンデルセンの世界に魅せられ、登場人物や異国の情景に工夫を凝らして描いたその作品群は、現存するものだけでも約 850 点を数え、子どもを描いた絵とはまた異なる画業の一角を形づくっています。 本展では、初期から晩年までのちひろのアンデルセンに関連する作品を紹介するほか、 国内外の絵本画家たちが描いた作品の数々も展示します。
ちひろのアンデルセン
ちひろは紙芝居や童話集、絵本、油彩画などに、毎年のようにアンデルセンの童話を描いています。156 編の彼の童話のなかで、わかっているだけでも 34 編に絵を描いており、「マッチ売りの少女」(8 回)「親指姫」(7 回)「人魚姫」「赤い靴」(各 6 回)など、繰り返し描いている童話もあります。ちひろはアンデルセンへの思いを次のように語っています。
「『マッチ売りの少女』とか、いろいろなおひめさま、また魔女たちに、
わたしは、それぞれのイメージをつくり、それをそれをすこしずつ発展させながら、
なんかいかいたことだろう。なんかいかいても、なお工夫するたのしさを、
わたしはいまだに失わないでいる。100年も位の年代の差をこえて、わたしの心に、
かわらないうつくしさをなげかけてくれるアンデルセン—。
むかしふうの文章なのだけれど、その中にいまの社会につうじる、
同じ庶民の悲しさをうたいあげているこの作家に、わたしはずいぶん学ぶことが多い。」
(1964年)
ちひろ・アンデルセンを訪ねて
まだ海外旅行の珍しかった1966年3月下旬から1か月あまり、47歳のちひろは「絵のない絵本」の取材のために、母を伴ってヨーロッパをめぐる画家たちのツアーに参加します。この旅の途中、ちひろは仲間たちと別れて母と二人、アンデルセンの生まれ故郷であるデンマークのオーデンセを訪れました。アンデルセン博物館の一隅には、最貧街にあったという彼の生家が残され、周囲の街並みも保存されています。
「『マッチ売りの少女』とか、いろいろなおひめさま、また魔女たちに、
わたしは、それぞれのイメージをつくり、それをそれをすこしずつ発展させながら、
なんかいかいたことだろう。なんかいかいても、なお工夫するたのしさを」
と、後にちひろはこの旅を振り返っています。帰国後に、“若い人の絵本”という新たな企画で描かれた『絵のない絵本』や、アンデルセンの自伝を絵本にした『わたしの少年のころ アンデルセンものがたり』などには、物語の奥にあるアンデルセンの人生や、その感性を育んだ土地を知ったからこそ表現できるリアリティが感じられます。
世界の絵本画家のアンデルセン
ちひろ美術館コレクションのなかには、ちひろ以外にも、国内外の絵本画家たちが多種多様な解釈と表現で描いたアンデルセン童話の絵が含まれています。
初山滋は、大正期からアンデルセンの童話の絵を手がけ、日本におけるアンデルセンのイメージを作り上げてきた画家のひとりです。子どものころに着物の模様画工房で奉公し、日本の装飾美を体得していた初山は、アンデルセン童話の幻想性を、抽象的な線や形象を用いて、繊細、華麗に描き出しました。特に『にんぎょひめ』にみる海底の世界は秀逸です。
チェコのアーティスト、パツォウスカーは『すずの兵隊』を限定版のリトグラフの絵本として制作しました。絵本を視覚芸術のひとつと考える彼女の作品は、アンデルセン童話から得たインスピレーションをもとに、新たな造形を生み出しています。
貧しい靴職人の子として生まれ、苦難や挫折を味わいながらも、強い向上心と持ち前の無邪気さで、どこまでも希望をもって人生を切り開き、世界的な作家となったアンデルセン。今も多くの画家たちの心をとらえてやまない、アンデルセンの世界をご覧ください。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン
デンマークの詩人・作家。オーデンセの貧しい靴職人の家に生まれるが、苦学の末、 30 歳で発表した小説「即興詩人」で認められ、以後多くの詩や戯曲などを手掛けた。 生涯に150 篇あまりの童話を残し、近代児童文学のはじまりに位置する童話作家といわれる。
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