たたずむ少年 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)より 1972年

ちひろが経験した日本の戦争

ちひろは、戦時下に青春時代を過ごします。女学校に入った12歳のときに満州事変が起こり、女学校を卒業した17歳のときに日本が中国への全面戦争を開始。日本の敗戦で第二次世界大戦が終わったのは、26歳のときでした。

父親が陸軍の建築技師として、母親は教師の職を辞した後、大日本連合女子青年団の主事(※1)として大陸の花嫁(※2)を送り出す仕事に就き、両親ともに国策に協力する立場でした。そのため岩崎家は、当時としては恵まれた生活を送っていました。しかし、1945年5月25日、ちひろは空襲で家を焼け出され、炎の海のなか、命からがら逃げ惑うという経験をします。そして長野県松本市に疎開し、終戦を迎えました。

戦後、ちひろは、太平洋戦争が日本の侵略戦争であったこと、両親が国策に貢献していたために恵まれた生活を送っていたことを知ります。ちひろは、後年こう語っています。「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動を受けました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました」。

自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と強く決意し、平和な世界の実現を願ったちひろ。その思いは、戦争をテーマにした作品だけではなく、ちひろのすべての作品の根底にあります。

※1 大日本連合女子青年団
1927年に、全国の女子青年団の連合体組織として発足。文部省直轄の、社会教育行政を担う全国組織で、特に若い女性を戦争体制に組み込むための機能を果たした。1941年には、大日本青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会と統合し、大日本青少年団となる。

※2 大陸の花嫁
太平洋戦争中、満州開拓移民に嫁いだ女性。国策である「満州移民」政策や、昭和恐慌による農村窮乏の結果、増加した開拓民に配偶者を確保する必要があり、国は日本各地に女子訓練施設をつくったり、見合いを斡旋するなど、積極的に「大陸の花嫁」を育て、満州へ送るための政策を行った。大陸の花嫁の多くは、日本の敗戦により満州の地に置き去りにされ、命を落としたり、「中国残留婦人」として過酷な人生を歩むこととなった。