いわさきちひろ 本を抱える少女 1970年

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ちひろ 本を読む人 描く人 

本展では、ちひろの描いた本にまつわる作品や絵本、読んできた本を展示し、ちひろと本との関わりを紹介します。

ちひろの描く、本のある風景

ちひろの描いた作品のなかには本を読んだり、持っていたりする人の姿が少なくありません。育児書、童話集、雑誌の表紙、そしてスケッチ等その種類は多岐にわたりますが、そこには人と本とのつながりが愛情をもって描かれています。

図1本を読む母子と本を抱える男の子

図1 本を読む母子と本を抱える男の子 『ね、おはなしよんで』(童心社)表紙 1962年

12年前に出版社より返却されて以来、初公開の作品は、大人が幼い子どもに読んで聞かせるための読みものを集めた『ね、おはなし読んで』(1962年、童心社)の表紙と裏表紙のために描かれたものです(図1)。表紙の絵では、本の手前とふたりの髪には花が飾られ、どこか夢のような愛らしさがただよっています。裏表紙では、少年が大きな本を抱えています。ちひろは、その2年前に同じ出版社の童心社が初めて出版したハードカバーの絵本『あいうえおのほん』の絵も手がけており、その表紙にも、似たように本を抱える少年が描かれています(図2)。

図2『あいうえおの本』 (童心社)表紙 部分 1960年

図2『あいうえおの本』(童心社)表紙 部分 1960年

スケッチでも、本を読む人を多く描いています。ちひろは、敗戦の翌1946年、疎開先の信州から、絵を学ぶために上京します。神田の叔母の家の屋根裏に下宿し、日中は新聞社の記者として働きながら、夜は芸術学校に通いました。そのころに描かれたこのスケッチでは、ちひろはキャンバスやイーゼル、画材に囲まれ、床に座って本を読んでいます(図3)。同居していたいとこによると、「畳がなく、板の間にうすべりをしいただけの粗末な」部屋でした。当時ちひろは複数の美術団体に所属して、制作もしていました。ペンで描かれた比較的小さなスケッチですが、これからの道を考えているようにも見え、なんの本を読んでいるのかを思わせます。

図3 屋根裏のアトリエで本を読む自画像 1947年頃

図3 屋根裏のアトリエで本を読む自画像 1947年頃

ちひろの読んできた本

では、ちひろはどのような本を読んできたのでしょうか。彼女は、幼いころの本の思い出についてこう記しています。「そのころ私は、ときどき垣根越しに隣のむすこと遊んでいた。ある日、垣根越しにその子が一冊の絵本を渡してくれた。厚手の紙に印刷された本であった。その本は今まで私が家で見ていた本とはまるで違っていた。美しい月見草が夕やみのなかにゆれてにおっているようであった。」ここで語られているのは、大正時代を代表する、子どものための芸術的な絵雑誌のひとつ「コドモノクニ」(図4)です。続けて「私の心のなかには、幼い日見た絵本の絵がまだ生きつづけている。」と語っており、ちひろが本のなかで出会った初山滋や、武井武雄らの絵は大きな意味をもち、後にともに童画家として仕事をすることになったときの感慨が想像されます。

図4  岡本帰一 サンリンシャ「コドモノクニ」 1926年

図4  岡本帰一 サンリンシャ「コドモノクニ」 1926年

童心社の「若い人のための絵本」シリーズは、若い読者のために好きな文学作品を選び、それに自由に絵を描くことができるという企画で、ちひろは意欲的に取り組み、一作目のアンデルセンの『絵のない絵本』以降、全部で7冊を手がけました。『花の童話集』(1969年、童心社)は、宮沢賢治の童話のなかから、花や植物が登場する物語を選んだものです(図5)。ちひろは、戦時中に賢治の作品に接し、その世界に惹きこまれました。戦後も賢治の詩を繰り返し読み、そらんじ、日記にも彼の詩を引用していました。それから30年近くして、初めて賢治の童話に絵を描く機会を得たちひろは、「私ふうに好きなように描いたので、それが私にはうれしくてなりませんでした。この本は私の大切な宮沢賢治です」と語っています。ちひろにとって、宮沢賢治の文や詩にあらわれる自然のなかの生命力は、自らの世界観に通じるものがあったと思われます。

図5 『花の童話集』(童心社)表紙 1969年

図5 『花の童話集』(童心社)表紙 1969年

ちひろの描いた本

ちひろは、他の作家の物語や昔話に絵を描いていくうちに、自分にしかできない絵本を描きたいと思うようになります。「さざなみのような画風の流行に左右されず、何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う。もっとも個性的であることが、もっとも本当のものであるといわれるように、わたしは、すべて自分で考えたような絵本をつくりたいと思う。」と、1964年に記しています。
至光社の絵雑誌「こどものせかい」に1958年から絵を描いていたちひろは、1968年に欧米の絵本に刺激を受けて帰国したばかりの同社の編集者の武市八十雄に、いわれます。「岩崎さん!絵本でなければできないことをしよう。画集でもなく、紙芝居を集めて綴じたものでもなく、物語に挿絵をつけたものでない絵本を!」武市のことばに共鳴したちひろは、勉強会をいっしょにしよう、と応じます。話し合うなかで、説明ではなく、「感じ、感じさせること」を大切にする絵本を目指します。1968年の『あめのひのおるすばん』から始まり、武市とのコンビでの3冊目となった絵本が『となりにきたこ』です。当初ちひろは鉛筆と墨のモノクロで描いていましたが(図6)、画材をパステルに変えたことにより、細かく繊細な描写が、勢いのある大胆な線で力強さを得、それまでにはない抽象性が画面に表れています(図7)。ちひろは、「描きはじめるまえにあれこれとえがいたイメージは、はかなく消えて、思いもかけない絵本ができました。」と語っており、新しい試みであったことがうかがえます。

図6『となりにきたこ』習作

図6 『となりにきたこ』習作 1970年

図 7 『 となりにきたこ』(至光社)より 1970年

図 7 『 となりにきたこ』(至光社)より 1970年