私小説・夢百話
司修は17歳のころから独学で油絵を描き始め、1959年に23歳で上京してからは自由美術家協会展等へ出品し、個展も開催するなど、画家として歩み始めました。一方で、生活のために装丁や絵本の仕事も始めます。当初は純粋な画家から外れる恥ずかしさを抱えながらも、次第に物語を絵にする魅力にひかれていきました。装丁の仕事を通して大江健三郎や水上勉などの作家と出会い、自身も深い洞察や取材に基づいたエッセイや小説、評論などを手がけるようになります。司は、絵と文章の境のない自在な表現者であり、また常に自分のなかに表現したい、表現しなくてはならない、切実なものを抱え続けた人でもありました。

図1 火の車 『私小説・百物語』(司修・文 岩波書店)より 2023年 個人蔵
司は岩波書店の月刊誌「図書」の2017年から2021年までの5 年間、毎号表紙絵を描き、その表紙の裏に「夢」に関するエッセイを書きました。それらの作品にさらに追加して100点をまとめた本が、2023年に出版された『私小説・夢百話』(岩波書店)です。幻想的な絵とともに、出会った人々のこと、美術や文学のこと、旅した土地のこと、社会問題などのさまざまな話が、夢と記憶、現実が交錯しながら書かれています。なかでも戦中・戦後の少年時代の記憶は、繰り返し語られています。
1936年に群馬県前橋市で生まれた司は、9 歳で前橋空襲を体験し、焼け野原となった町で敗戦を迎えました。戦争で受ける傷は、肉体のものだけではありません。司は子どものときに受けた傷を忘れることなく、創作の源としてきました。
広島の原爆
本展の核となる『まちんと』(松谷みよ子・文 偕成社)は、1945年8 月6 日の朝、広島で被爆してトマトをねだりながら亡くなった3 歳の女の子を主人公にした絵本です。幼い子も目にする絵本に原爆を描くにあたり、司は自分が思うような恐ろしい原爆の図を描くわけにはいかないと考え、1 年以上悩み続けたといいます。目をそむけたくなる場面もモノクロームなら救われるのではと、黒一色のリトグラフで1 冊分を描き上げますが、その後また1 年かかって全場面を鮮やかな色彩の絵に描き直しました。
今年6 月、司はちひろ美術館・東京での「ヒロシマ🍅トマト」と題した講演で、この絵本を手がけたときからの思いを語りました。そのなかで何度も読み返してきたという『詩集 原子雲の下より』(青木文庫)に収録された、広島の子どもたちの詩を紹介しました。これらの子どもたちの詩や絵、原爆に向き合ってきた人たちのことば、現地での取材などから、司は深く広島の原爆のイメージを探り出し、自分のなかに取り込み、表現していったことがわかります。原爆病院院長の重藤文夫氏が語った、被爆直後の翼を傷めた小鳥の死の話から、亡くなった女の子が鳥になる場面を思い浮かべ(図3 )、「ヒロシマの空を、世界中の空を飛ぶために生きる、死と再生のイメージ」*1を持ったといいます。初版から5年後に、すべての場面に手を加えて出版された改訂版では、白い鳥が現代の空を飛ぶ場面(図4 )が新たに描き足され、広島の原爆は過去ではなく、今につながっていることがより強調されました。

図2 司修 『まちんと』(松谷みよ子・文 偕成社) 1978年/1983年 ちひろ美術館蔵

図3 司修 『まちんと』(松谷みよ子・文 偕成社) 1978年/1983年 ちひろ美術館蔵

図4 司修 『まちんと』(松谷みよ子・文 偕成社) 1978年/1983年 ちひろ美術館蔵
長年にわたって取り組んだ絵本『まちんと』以後もずっと、司は原爆や核の問題に向き合い続け、絵画や脚本、小説など、さまざまな表現の仕方で私たちに提示し続けています。
宮沢賢治の童話
1969年に『宮沢賢治童話集』(実業之日本社)のための絵を依頼されたのをきっかけに、司は宮沢賢治の生き方や作品に魅せられていきます。「注文の多い料理店」や「雁の童子」(図5 )などの童話を繰り返し描き、そのたびに異なる画材や技法を用いて新たな表現を見せてきました。それは「賢治の物語に塗り込められた、絵の具の層から滲み出てくる変化」*2だといいます。イーハトーブのモチーフとなった賢治の故郷・岩手県も繰り返し訪れ、賢治の人物像や世界観のイメージを膨らませ、絵物語や小説にもしてきました。

図5 司修 『雁の童子』(宮沢賢治・作 偕成社)より 2004年 個人蔵
2011年3 月11日、東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故が東北地方を襲いました。司は自分にもなにかできることがないかと思い続け、賢治の『グスコーブドリの伝記』『雨ニモマケズ』、そして『銀河鉄道の夜』(偕成社 図6 )を絵本に描きました。物語の終盤、銀河の旅を続けてきたジョバンニとカムパネルラが、どこまでもふたりで皆のほんとうのしあわせを探しに行こうと約束した直後、カムパネルラの姿が消え、目覚めたジョバンニは友人の死を知ります。「新たに『銀河鉄道の夜』を読むことで、多くの死者と、生き延びた人々の苦しみ、苦しみを乗り越えて生きるもうひとつの苦しみと希望を、知る機会になるのではないか」と、司はこの絵本のあとがきに記しています。

図5 『雁の童子』(宮沢賢治・作 偕成社)より 2004年 個人蔵
「過去のことは忘れて未来を語らねば、という人たちが増えている。たしかに人間には未来が大切である。が、忘れてはならないものがある。それなしでの未来など虚像にすぎない」*3。目まぐるしく変化していく社会のなかで、忘れてはいけないものを見極めながら、89歳になる今も新しい表現を模索し続けている、司修の世界をご覧ください。
*1「ヒロシマ・トマト」月刊「図書」2025年7月号(岩波書店)より
*2『さようなら大江健三郎こんにちは』(鳥影社)より 2024年
*3「夢の中の遠い声」(法蔵館)より 1993年
トマト 司 修 展
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