いわさきちひろ はなぐるま 1967年
ちひろは青春時代を戦時下で過ごし、戦後は画家としてひとりの母親として、平和への願いを絵筆に託して子どもを描き続けました。空襲のなかを逃げまどった体験を持つちひろにとって、戦争はけっして許されるものではありませんでした。愛情に包まれた子どもの絵も、戦火にさらされた子どもの絵にも、彼女のことば「世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを」という願いが込められています。ウクライナでの戦争の終わりが見えず、国際的にも軍拡の動きが進む今の時代にあって、ちひろの絵はいっそう強く、平和の尊さを訴えかけてきます。
いのちのかがやき―春の光のなかで
「平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」と語ったちひろ。ウクライナの破壊された光景が連日報道されるなか、なにげない平和な日常のなかにこそ、なににも代えがたい豊かさや美しさがあることに改めて気づかされます。
「春の花と子どもたち」(図1)では、前景に大きく配したチューリップやガーベラの花や蝶と、楽しげに遊ぶ子どもたちとが呼応するようです。春の子どもの情景を描いた絵には、子どもと色とりどりの花とを組み合わせたものも多く、色彩豊かな画面は、いのちのかがやきに満ちています(図2)。
ベトナム戦争と反戦運動とちひろ
1960年代前半から75年まで約15年にわたるベトナム戦争では、アメリカ軍の無差別攻撃や枯葉剤の散布によって、民間人も含めて150万人もの犠牲者が出たといわれています。当時、米軍占領下にあった沖縄だけでなく日本にあるすべての米軍基地は、兵器や物資を補給する重要な後方基地の役割を果たし、日本経済は「ベトナム特需」によって潤います。
一方、ベトナム戦争の激化にともない、国内でも反戦運動が高まるなか、1967年、児童文学者のいぬいとみこや今江祥智、古田足日、絵本作家の田島征三らが、「ベトナムの子供を支援する会」を発足します。同年11月にはイラストレーターや漫画家、絵本画家たちの協力を得て、銀座の数寄屋橋で第1回反戦野外展を開催し、70年からは毎月1回行われました。出展を依頼された画家やイラストレーターのもとにはB全判のパネルが届けられ、ちひろも1970年に「ベトナムのこどもわたしたちの日本のこども 世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを」ということばを添えて、パステルの作品に仕上げています(図3)。
反戦の思いを込めた3 冊の絵本
ちひろは1967年、広島で被爆した子どもたちの詩や手記に絵をつけた『わたしがちいさかったときに』を制作します。原爆の惨禍を風化させず、反戦運動に参加する若い世代に戦争がもたらすものを知ってもらいたいと考えたのでしょう。取材旅行で広島を訪れたちひろでしたが、この地で亡くなった人びとを思い、一睡もできませんでした。「どんなに可愛い子どもたちがその場におかれていたかを伝えること」に心を砕いたちひろは、負傷した体や惨状を具体的に描写するのではなく、原爆が落ちた日の、また被爆後に広島に生きた子どもや家族の深い悲しみを鉛筆と薄墨で描きました。
「防空ずきんにくるまるあかちゃん」(図4)は、原爆から8日後に生後7ヵ月で亡くなった妹を偲ぶ少女の手記に添えられたものです。つぶらな瞳が、失われたいのちへの思いを伝えています。
その後、ちひろはベトナム戦争をテーマに、1972年に『母さんはおるす』、翌1973年には『戦火のなかの子どもたち』(図5)と2冊の絵本を続けて発表します。体調はすぐれず、入退院を繰り返しながらも、「私のできる唯一のやり方だから」と1年半をかけて『戦火のなかの子どもたち』の制作に取り組み、50点におよぶ連作を描き上げました。自らの空襲の体験も重ね合わせながら、戦場で心を深く傷つけられた子どもたちの姿を描いた作品群は、最終的に19点の絵と詩のような短いことばで構成されました。『戦火のなかの子どもたち』が完成したのは1973年9月、刊行から1年にもみたない翌年8月、ちひろはベトナム戦争の終結をみないまま55歳の生涯を閉じます。
本展ではこれら3冊の絵本原画のほか、子どもの遊びの情景やあかちゃんを描いた作品などを展示し、ちひろの平和への願いを見つめます。あわせて、自伝的絵本『わたしのえほん』や息子をモデルにしたスケッチや作品なども紹介、ちひろの人生や時代背景にも焦点をあてます。
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