いわさきちひろ おやゆび姫 1972年

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ちひろ・アンデルセンの世界


デンマークの作家H・C・アンデルセン。日本では、明治19年に「オウサマノアタラシキイショウ」が紹介されてから、子どものための本として翻訳されたり、童話集が出版されるなど、現在に至るまで幅広い世代に読み継がれてきました。
いわさきちひろも、人の世の喜びや悲しみまでをも描き出すアンデルセンの童話の美しさに心惹かれ、イメージをふくらませながら繰り返し描き続けました。
本展では「おやゆび姫」「人魚姫」などのほか、日本ではあまり知られていない童話の作品も数多く出品し、ちひろが描いたアンデルセン童話の表現の変遷とその背景をさぐります。ここでは日本でも親しまれている「赤いくつ」を取り上げ、時代ごとの表現の違いをたどります。

花のなかのおやゆび姫

花のなかのおやゆび姫『おはなしアンデルセン』(童心社)より 1965年

五つぶのえんどう豆

五つぶのえんどう豆 1972年

「赤いくつ」―墓場で踊る少女

1948年、子どものための本の絵「童画」を描く画家たちが設立した日本童画会にちひろは入会しました。童画会では定期的に展覧会を開催し、会員同士による批評の場を設けるなど、童画というジャンルの向上のため、互いに切磋琢磨していました。1951年の展覧会では、会員に「アンデルセン」というテーマが与えられ、ちひろは「赤いくつ」を選び、墓場で体を折り曲げながら踊る少女を油彩で描いています。暗い背景のなかに白いドレスが浮かび上がるこの作品には、バレエ映画「赤い靴」(1948年)の影響も感じられます。

油彩「あかいくつ」

赤いくつ 1951年

1950年代から60年代にかけて、日本では、海外の童話を翻訳した童話集が数多く出版されました。ちひろもこの時代、アンデルセン童話の描き手として活躍し、少なくとも8冊の童話集を手がけています。『少年少女世界文学全集35 北欧編1』(1958年)にも「赤いくつ」が収録され、ちひろは油彩に近い構図で、墓場で踊る少女を描いています。
1950年代の作品では、赤い靴に魅了されて教会や恩人への礼を欠き、足を切り落とすまで踊り続けることになる少女の運命に焦点をあてて表現しています。

墓場で踊る赤い靴の少女「少年少女文学全集35」

墓場で踊るカーレン『少年少女世界文学全集35 北欧編1』(講談社)より 1958年

「赤いくつ」―教会の前で踊る少女

1960年代半ばに描いた作品には、背景に実在の教会が登場しています。
『少年少女世界の文学23』(1966年)で、ちひろは6編の童話の挿し絵を手がけました。「赤いくつ」の口絵では、少女は墓場ではなくアミアンのノートルダム大聖堂と思われる教会を背景に踊っています。幾何学模様のステンドグラスや、小塔の美しい装飾が鉛筆で描かれています。

兵隊と踊るカーレン「少年少女世界の文学23」

兵隊と踊るカーレン『少年少女世界の文学23』(河出書房)より 1966年

童話集が出版される約3ヶ月前、ちひろはアンデルセンの生地デンマークのオーデンセを訪れることを目的に、約1ヶ月にわたるヨーロッパ旅行に出発しました。イギリス、ドイツ、フランス、イタリアなどを巡り、異国の文化や風土に触れたこの旅は、ちひろのアンデルセン童話の表現に大きな変化をもたらしました。

旅行後の1968年に描かれた絵本『あかいくつ』の初版の表紙では、ちひろのヨーロッパ旅行のアルバムに残されていたケルン大聖堂(ドイツ)の写真を参考にして描いた教会の前で、少女は何かに導かれるように踊っています。水彩の濃淡を用いて、ゴシック様式の壮麗な建築を印象的に描き出しています。

教会前で踊るカーレン

教会の前で踊るカーレン『あかいくつ』(偕成社)より 1968年

アンデルセンの生地オーデンセを訪れたときを回想し、ちひろは「なにからなにまで見なければ描けないなんてことはないけれど、じかにこの目で見、ふれることのできる感動がどんなにわたくしを力強く仕事に立ち向かっていけるようにするかということをかみしめていました」と記しています。実在の建物や風景を描くことにより、リアリティと臨場感が感じられる表現へと変化しています。

「赤いくつ」―靴とともに踊る少女

1960年代後半から、ちひろは企業のカレンダーに絵を描いています。
1972年、ちひろは「赤いくつ」をテーマに1枚の絵を描きました。季節やテーマをもとに自由に描くことができたこの仕事で、ちひろは童話をもとにしながら発想を広げて、軽やかにステップを踏む赤や紫の靴とともに楽し気に踊る少女の姿を描いています。この作品では、悲劇的な運命ではなく、赤い靴に心躍らせる少女の純粋な気持ちに焦点をあてています。

赤いくつ 1972年

「百年の年代の差をこえて、わたしの心に、かわらない美しさをなげかけてくれるアンデルセン」と語っていたちひろ。時を越えて、人の世の真実を映し出すアンデルセンの童話の普遍性に深く共感しながら、描くたびに新たな表現の世界を紡ぎ出しています。