初山滋 「蝶サン ウツシマスヨ!」 1933年(個人蔵)
安曇野ちひろ美術館で開催する初山滋展では、ちひろ美術館・東京で春に開催した展覧会から作品を一部入れ替えて、初期から晩年までの童画や絵本の原画、木版画、教科書の装丁画などを展示します。
初山滋(1897~1973)が亡くなって50年を経た今日、日々新しい絵本が出版されるなかで、「童画」ということばを聞くことは少なくなりましたが、日本の近代の幕開けの時代に、子どものための絵を求めてまだだれも歩んでいない道を切り開いた童画家の、今見てもみずみずしい作品群をご覧ください。
「おとぎの世界」のころ
大きな満月を背景に、兎の衣裳の上にチュチュを着けた女の子が、木の上の猿を見つめています(図1)。
妖しく幻想的なこの作品は、1919年に創刊された児童文芸誌「おとぎの世界」に絵を描いていた22歳ごろの作品と見られます。初山が「おとぎの世界」でメインの画家として筆をふるったのは翌年の11月までの1年半の間でしたが、表紙や挿し絵のほか、詩や童話も発表して、注目を集めました。子どもの本に絵を描き始めた当初から、初山の絵は強烈な個性を放っていました。
コドモエホンブンコ『一寸法師』
1928年から翌年にかけて、一冊一話の絵本シリーズとして「コドモエホンブンコ」20冊が刊行されました。初山は御伽草子のひとつとして親しまれてきた昔話「一寸法師」(図2)を絵本にしています。
岡本帰一や武井武雄らとともに日本童画家協会を設立した翌年の作品でもあり、江戸時代の草双紙の影響を脱し、子どものための新しい絵である「童画」を生み出そうと、独創的でモダンな絵を描きました。この絵本の詩のようなリズミカルな文も初山自身によるものです。
『読書村の春』
酒井朝彦の文による『読書村の春』は、旧満州(中国東北部)開拓のために分村を決めた木曽の雪国・読書村を舞台に、満州移民のようすを子どもの視点からつづった童話で、戦時中に出版されました。多くの犠牲者を出した満蒙開拓団の歴史を伝える一冊ともなっています。初山は1941年にこの村を取材し、雪国の風物をスケッチしたといいます。お宮には彼の地でお国のために働くことに憧れる少年が書いた「満州開拓少年」の書き初めが貼られています(図3)。
手打絵本一番『ゆびかぞへ』
1943年の三女の誕生を祝い、愛児への贈りものとして手がけた『ゆびかぞへ』は、自刻自摺した木版画による3作目の私刊本です(図4)。
「お前は戦争っ児だというのが家に一人居る。その児を膝にのせ、児の指を一つ一つ折り、数のれん習ということもなくやっている中で、この本のアイデアがまとまった*」と語っています。数字の書き方や読み方とともに、指を折って数を示す幼い娘と父親の手が描かれ、着物の袖の模様のようにその数を示すものが装飾的に配されて、手彩色が施されています。終戦をまたいで3年の歳月を経て完成したこの本から、初山は私刊本を「手打絵本」と呼ぶようになりました。
『えほんのあめや』
「さァていらっしゃい、えほんのあめやでござい。……」初山自身の手による文字原稿のついた、未発表の絵本の原画(図5)が遺されています。
戦後間もない1948年3月に描かれたもので、職人が手描きで版を起こす描き版での印刷を考えてか、色数を抑えた色面で画面が構成されています。まだ子どもたちが甘いあめを口にすることもままならなかったころの作品で、最後に飴屋はこうもらしています。「みせにならべた あめちゃんは、みんな さらっととびだして、おどりおどって子供のお口へ――、これはしたり、えほんのあめではとんとあまくなくて とは思いつつ。」
『にんぎょひめ』
アンデルセンの童話は、日本でも明治時代から紹介され始め、児童文化が普及するなかで広まりました。初山はアンデルセン童話の描き手として、繰り返し童話集の挿し絵や絵本を手がけています。
写真製版の技術が普及してから描かれた『にんぎょひめ』(図6)では、人魚の住む海のなかの光や波の動きを、水彩絵の具のにじみやたらし込みを駆使した揺らめく色面や、細かな点描を用いて幻想的に表現しています。
貧しさのなかで絵の修練に励んで独自の童画を生み出した初山の生い立ちは、デンマークの貧しい家庭に育ちながら苦学して近代童話の創始者となったアンデルセンの生い立ちとも重なり、哀しみをも美しいファンタジーに昇華させた作家との、響き合う感性が感じられます。
* 1956年(「対談のつもりで―私刊本を語る―」より)
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