田島征彦 『祇園祭』(童心社)より 2016年
田島征彦は大阪の堺に生まれ、高知で育ちます。自然豊かな土佐の野山をかけまわり、魚を捕りながら、幼いころに姉の教科書に描かれた椿の花の絵を見て、このような絵が描ける画家になりたいと決心。双子の弟・征三とともに、限られた材料で絵を描く一方、楽しみだった図工の時間では思うように描けない、つくれないことに癇癪をおこし、しょっちゅう泣いていた少年時代でした。田島は美大への進学を直前に決めたため、高校の先生に今から受かる可能性のある学校として京都市立美術大学の染織科をすすめられます。最初は自分に向いていないと断ったものの、入学後好きなことができると諭され出願し、合格します。しかし大学時代は、学内の劇団での活動に熱中し、染織にはほとんど関心を示しませんでした。
現代美術やイラストレーションなど幅広く関心をもっていた田島は、在学中に課題で絵本をクラス全員で制作した後、自ら同級生を誘い、物語まで考えた絵本『りんごと宝石』をつくります。さらに、翌年はシルクスクリーンで絵本『まざあぐうす』を制作し、東京でデザインを学んでいた征三に見せるために持参します。今では見られたものではないというものの、これらは田島の絵本の出発点ともいえます。卒業を控え、就職すると制作の時間や場所を失うことに気づき、田島は同大学の専攻科に進学し、ようやく本格的に染織を始めました。
『祇園祭』いまむかし
1973年に田島は京都新聞の連載のために、京都や滋賀の祭を題材にした作品を制作します。その作品の展覧会を見た童心社の編集者に、日本の祭をテーマにした絵本をつくらないか、と声をかけられ、田島は染織科の恩師であり、人間国宝の稲垣稔次郎が語った「祇園祭は太陽にむかうての行進なんや」ということばを思い出し、引き受けます。専攻科を卒業後、大学で講師をしながら制作を続けていた田島は翌年制作に専念するために仕事を辞め、京都の田舎へ引っ越します。それは、東京の日の出村で畑を耕しながら絵を描く征三の生活が頭にあったからだといいます。
2 年の取材と、4 年の制作期間を経て1976年に初めての絵本として『祇園祭』を出版。そこには、洛中洛外図屏風(舟木本)に描かれた17世紀の祇園祭のようすからはじまり、祭をさまざまな場面で支える人たちが、祭の経過を追って、恩師の稲垣が用いたのと同じ型絵染という技法で布に表現されています。肌が黒色で表された人物は、祭の華やかな色彩を一層ひきたてています。
笑いと反骨の画家
田島はデビュー以降30冊以上の絵本を手がけていますが、そこに見られる特徴として、ユーモアとあたたかいまなざし、そして権力や理不尽なものに対する怒りや反骨心があります。『じごくのそうべえ』は上方落語の「地獄八景亡者戯」が原作ですが、架空の地獄の世界が、なんともおかしな絵本となっているのは、個性的な登場人物と場面の描写にあります。実際、田島はこの落語のテープを幾度も聞き、幾度も笑いながら制作したといいます。『てんにのぼったなまず』(1985)は、田島が魅了された大津絵に描かれたなまずと地震のなまずをかけあわせ、取材や構想などに15年をかけて絵と文を手がけた絵本です。村のなかで絵ばかり描き、侍の頼みには耳を貸さず、村人たちのためにはよろこんで描く主人公は、どこか田島とも重なります。
子どもたちと未来
版画や染織などによる一枚絵の作品もつくり続けている田島は、絵本は子どもたちが最初に出会う美術であるので、制作の心がまえは同じだ、と語っています。また、彼の絵本に登場する子どもたちは、日常と社会の現実のなかで一生懸命に生きています。『ふしぎなともだち』では、引っ越してきた転校生のゆうすけの視点から、同じ学校に通う「ふしぎな」ともだちである、自閉症のやっくんとの交流が語られます。竹をすきこんだ紙に型絵染で描かれたふたりの子どもは、島の自然のなかでたくましく成長していきます。瀬戸内海の水平線を背景に、自転車とバイクでそれぞれの道を行く最後の場面は、絵本の見開きを生かした広がりをもっています。
『やんばるの少年』は、田島が今まで繰り返し題材にもしている沖縄が舞台であり、現在もヘリパッドの建設で問題になっている高江に何度も通い取材して描いたものです。筆跡も見えるように、紙に染織用の樹脂顔料で描かれた画面では、子どもたちが、轟音をたてて飛行するオスプレイにおびえて空を見上げています。
「21世紀の時代に呑み込まれないような町絵師になりたい。」と語る田島征彦の作品をお楽しみください。
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